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  天は月に遊び地は花に遊ぶをもて風雅の元とす祖翁ハ奥の細道をも尋て五七五の作意をいつ迄もつきせぬ余情定め置かれける己も此道をしたはんとて嘉永元申年弥生の空を待兼道祖神のまねきにあひ三りの灸をすゆるより白川の関を越へ松嶋の月を見んと心そゝろに茂助というふ供をつれ杖をとりて
道ミみや尋る人も千松嶋
と一句を言ふて三月四日早朝より浪花表へ発足す其頃天遊渓斉糸海に逗留 又
糸海の衆中送別の句々左に

はたこ町通り過して花すミれ      天遊

あかね日のあかぬ道なりきしの声    渓斉

風流の賈家(こか)君に似たるは稀なり。遠く
名迹(めいせき)を指して旅衣を試む。奇貨居くべ
し松嶋の翠、毫底に収め尽して嚢を括
りて帰ることを試む。            静庵

松嶋や雄しまによするしらなみの
立ちかへる日をいつをまたまし     良臣

松の香をしほりに出よ花の中      太乙

むつのくのつとの花見や嵐山      ぬか人

 
     
  この天地の間においては花鳥を愛で、風月に遊ぶことを風雅の根元とする。(元禄の音)、芭蕉翁は「奥の細道」の旅を試み、俳諧の特に大切な心をいつまでも尽きることのない余情として定め置かれたのである。私もこの「奥の細道」の後を恋い慕い、嘉永元年戌申の年、芭蕉翁と同じく春霞の立つころになるのを待ちかねて、道祖神(道中の安全を守ってくれる神)の招きにあい、足を丈夫にするため三里に灸をすえるや否や、白河の関を越え、松島の月を見ようと、気もそぞろに、茂助という従者を伴い、杖を手に持って
道ミみや尋る人も千松嶋
(道中、問いかける人もみな松島をめざしている旅人である。)
という一句をよんで、三月四日、早朝より浪花へ向けて出発した。そのころ、天遊と渓斉は伊丹に滞在していた。(その句)および伊丹の仲間の人々の送別の句を左に記しておく。
○道中、宿駅を通過して今日もあなたは、すみれの花咲く春の野を行くことだ。<天遊>
○いつまでも、どこまでも続くはてしない旅である。どこからともなく聞こえてくるきじの声が、山野を行くあなたの旅情を慰めてくれるだろう。<渓斉>
○あなたのように風雅を解する商人はめずらしい。このたび、あなたは風騒の人々の後を慕い、数々の名所、旧跡をめざして、遠くみちのく(奥州)に旅立とうとしている。折しも松島は松の緑も一段と色鮮やかなころ、訪れるのにまたとない時である。この好機をのがしてはならない。そして、すばらしい景観を筆に任せ、袋が一ぱいになるほど、すべて書きとめて帰ってくるようにしてください。<静庵>
○松島の雄嶋が磯に白波が寄せては沖へかえっていく。伊丹にお帰りの日をいつとお待ちしましょうか。どうかお元気で、早いお帰りを。<中村良臣>
○美しく乱れ咲く花の中を行くあなた、松の香りを枝折(道案内)として、そこを通り
抜けなさい。<山口太乙>
○嵐山での花見をみちのく(奥州)への「つと」(旅に携えていくもの)として元気に
出発を。<岡田糠人>

               出典:『照顔斉道の記』より
 
 

梶曲阜17991874

幕末での伊丹俳壇の第一人者。伊丹で生まれ、生涯伊丹で暮らした。郷土の俳人上島鬼貫を慕い、岡田糠人、山口太乙とともに、鬼貫の句碑を8基建てた。また、」郷土に関する事柄や伝来の書物を後世に伝えるべく『有岡古続語』を遺している。

 
  
  場所:有岡公園内

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