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.有岡城跡 (国史跡)

JR伊丹すぐ





有岡城跡

村重とだしの句碑


有岡城(伊丹城)は、伊丹段丘の東縁部の高台を利用した平城で、JR伊丹駅を中心とした範囲に本丸がありました。明治24年に「川辺郡馬車鉄道」が開通し、その後、阪鶴鉄道から国鉄「福知山線」へと変遷する間に本丸の大部分が削られ、現在は本丸の西側一部が残るのみとなりました。残っていた城跡は開発か保存かで議論が紛糾しましたが、昭和50年から始まった発掘調査で石垣、井戸、土塁の遺構や礎石建物跡、庭園跡が発見されたことから、昭和54年に国史跡に指定され、本丸西側と猪名野神社西側の堀跡は昭和63年に追加指定されました。現在本丸部分は整備されて史跡公園になっています。ところで、特筆すべきこととしては『本丸と、きしの砦(猪名野神社)は史跡面指定、外構えに沿った外堀土塁跡の輪郭部は史跡線指定、外構えに囲まれた地域全体は発掘保存対象遺跡に指定』されたことです。このように外構えの輪郭部と本丸部が一括して史跡に指定されたケースは、全国でも前例がないようです。

伊丹城の歴史は古く、鎌倉時代末期頃より土地の豪族伊丹氏の居城であり〈文和3年(1353)文献に初見〉史上初の「天守」の伝承もあり、戦国時代を通じて拡充されてきました。天正2年(1574)伊丹忠親を破った荒木村重は、信長の命により摂津守となり伊丹城を 「有岡城」 と改名しました。 そして侍町、町屋を含む全体の周囲を堀と土塁で防備した我が国初めてといわれる「惣構え」の構造を持った城郭を完成させました。「惣構え」の規模は、北にきしの砦(野々宮砦)、南に鵯塚砦、西に上臈塚砦を配置した南北1.7キロメートル、東西0.8キロメートルに及びます。天正5年(1577)城を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも『甚だ壮大にして見事な城』と耶蘇会士日本通信に記しています。 天正6年(1578)11月謀反の疑いを掛けられた荒木村重は、これ迄の経緯でやむを得ず有岡城に籠城し、包囲した信長軍の攻撃を堅固な防備を活かして1年余り持ちこたえました。天正7年(1579)9月村重は、自ら毛利の援軍を求めて子息村次の守る尼崎城へ脱出しましたが、その間に上臈塚砦で内通する者が出てそこから攻め込まれ12月ついに落城しました。  一族一類婦女子に到るまで、京六条河原と尼崎七つ松で磔、焼殺、斬罪に処せられ、その悲惨な様子と村重の妻「たし」(だし)等一族子弟の健気な最後は人々の涙を誘いました。落城後の村重は、毛利氏を頼って尾道に亡命し、道薫と称しました。秀吉にお伽衆として、茶道で仕え、52歳、堺で謎の多い生涯を閉じました。
天正11年の廃城後は、荒廃していましたが、近年の発掘で侍町の堀割や、中国製の陶磁器が発見され
「惣構え」の中の当時の状況を偲ばせてくれます。

 (文責 柴田博)




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