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金剛院 宮ノ前二丁目猪名野神社から南へすぐ


金剛院表門

 



町石傘塔婆

 真言宗御室派、有應山金剛院は伝承によると、古くは善樂寺と号し、宇多法皇の勅願により、904年(延喜4)、醍醐寺の聖宝僧正=理源大師(しょうぼうそうじょう=りげんたいし)が薬師如来像を本尊として開基しました。猪名野神社の別当寺として、「野の宮寺」、「野の宮院」とも称しました。当時は寺域も広く塔頭7院を擁し、隆盛を誇っていましたが、信長の村重攻めの兵火で灰塵に帰しました。
 江戸時代後期の古野将盈の著した『有岡庄年代秘記』に、「野宮院、所在地北少路村、開基は文禄年間」とあるように、当寺は文禄年間(1592〜1595)に豊臣秀吉の命で千僧村、願成就寺の地蔵坊長照法印により再興され、江戸時代に本堂も再建されましたが、1900年(明治33)に全焼し、本尊薬師如来像も焼失したと伝わります。
 現在の本堂は旧持仏堂で豊臣秀頼により再建されたと伝わりますが、建築手法から年代的には下るようです。本尊は木造大日如来坐像です。
 山門は薬医門形式の表門で1702年(元禄15)に建てられました。
 石造遺品としては、有銘町石笠塔婆残欠があり、現在は塔身だけで、次のように銘文が陰刻されています。

  永正十四年(1517)丁丑 玄性
  南無阿弥陀仏 十二丁
  八月十八日 永昌

 この町石笠塔婆と同じ年月日のものが、川西市加茂の阿弥陀寺(十四丁)と、宝塚市中山寺山内華蔵院庭園(六丁)にあり、中山寺への案内丁石と考えられています。他に不動種子(カーンマン)板碑残欠や宝筐印塔残欠など市内では残存例の少ない遺産があります。墓地には江戸時代の国学者で歌人の村上潔夫、中村良臣の墓があります。






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