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菩提寺

船原二丁目  阪急伊丹駅北西五分









橋本香坡の墓


菩提寺は、元禄年間法巌寺第九世然蓮社英誉上人が開祖で、黒墓の有縁無縁の諸精霊の菩提を弔うために建立されたという浄土宗の寺で、この墓地には橋本
、太田北山、といった有名な文人墨客、勤王家の墓がありました。

橋本香坡

文化六年(1809)上野国沼田の生れで、名は通、通称は半助、字は大路。大阪・篠崎小竹(しのざきしょうちく)門下の四天王の一人といわれた漢学者で、天保年間に起こった「お蔭参り」「お蔭踊り」の混乱を重視した伊丹郷町の宿老達が、郷民教育の為に領主の近衛忠煕
に願い出て設立されたのが「明倫堂」で近衛公の招きで初代教頭となりました。明倫堂では四書五経の素読、輪講や詩文習字など、当時の基礎的な学習が行われ、老若を問わず受入れたので尼崎、西宮からも入門者が集まりました。門下生は、寺子屋を開いたり、維新後の小学教員になるなど教育に携わっています。

また、勤王の志厚く志士と深く交わったので元治元年(1864)罪を問われて投獄され、慶応元年(1865)57歳で獄死したのを、門人達の手で此処に葬られました。

  町民達は人倫に厚く豪放磊落(ごうほうらいらく)な香坡に接し、幕末期の複雑な社会にも触れ、討幕活動で倒れた香坡の良き理解者として彼の妻子にも経済的援助を惜しまなかったといいます。明治二十四年特旨を以って従五位を贈られています。

太田北山

文政十年(1827)肥前小城(おぎ)藩に生まれ、古賀精里の門下で27歳のとき、既に肥前鍋島藩校の生徒局長となり、藩学指南役となるほどの博学でありました。 明治17年小西新右衛門に招かれ、伊丹に居を移して鍛治屋町に私塾を開きました。特に易経・詩経に通じ、門下生は千人を下らなかったといわれ、後に伊丹小学校の教員にもなりました。明治44年85歳の高齢で伊丹で亡くなりました。






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