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金岡の清水

清水三丁目市バス「清水橋」西北へ五分







伊丹猪名野神社門前より100メートルほど西にいくと、春日丘、緑が丘方面へ向かう道路と交差する四つ角があります。昔この辺りは大広寺村字清水、又は「清水橋」と呼ばれていた所で、伊丹市制が敷かれてから大広寺村は消えて清水町として残っています
清水の謂れは、この四つ角を西に向かう地点から 旧中山道 (きゅうなかやまみち)と称される古道に入って100メートル程の右側に現在は島家の庭に清水が湧き出ている所がありました(今は清水は出ていません)

「摂陽群談」、「五畿内誌」、「有岡古続語」等によると、『平安時代光孝天皇の仁和年間(885〜889)頃、二度に亘り伊丹に遷都のことが朝議にかけられた』とあり、また、『当時、学者であり画家であったという人が聖宝僧上の依頼を受けて伊丹に来たとき、此処から湧き出る綺麗な清水に感動し、早速この泉の水を汲んで彩管(絵筆)の用に供し、伊丹の風景を描いて内裏に奉った』とあります。これが金岡清水の由来となっています。清水町の地名が、このような歴史的故事に因んで残ったのは貴重なことです。巨勢金岡は、絵筆一本で采女正(うねめのしょう)の地位に上がっており、清和,陽成、光孝、宇多、醍醐の五帝に仕えた名人で当時、「菅原道真、藤原敏行と共に詩、書,画の三絶」といわれた一人であります。

伊丹では、その金岡を偲んで清水町の西側付近が金岡町と呼ばれていましたが、今は金岡という地名は消えて、水路の名前としてのみ現在に伝えられています。江戸時代には中山寺や西国街道を往来する旅人達がこの清水を呑んで一息ついた所でもあります。
この清水が出なくなったことは市民にとってとっても惜しまれるところであります。






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