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臂岡天満宮

鋳物師一丁目 市バス「体育館市民プール前」北東10分








 




伊丹廃寺の礎石


臂岡天満宮
は、猪名川右岸の伊丹段丘上にあります。祭神の菅原道真公(845〜903)は、平安時代中期学者の家系に生まれました。政治家としても腕をふるい、右大臣にまで登り詰めましたが、藤原氏の陰謀により突然九州に左遷されました。

醍醐天皇の延喜元年(901)、公が左遷の道中、当景勝地に立ち寄り臂を枕に休息されたので、以後、この岡を臂岡と呼ぶようになったといいます。このとき、橘姓、大路姓の村人が公に粗茶を献上したとの記録もあります。公はこの地を去るとき、「吾れ赦免となって生あらば此の地を繁昌の霊地となすべし」との誓いを立てて、九州に下られましたが許されることなく、延喜三年(903)2月25日に59才で筑紫の安楽寺にて逝去されました。没後90年を経た一条天皇の正暦4年(993)になって赦免され、正一位太政大臣の官位が贈られました。そのことを公の霊前に報告のため、筑紫に下った勅使が帰京の途中、生前公が聖地繁昌を誓われたことに因み、この地に社を建てて公の自画像を納めたのが当宮の起こりとされています。

当宮は、北村にあることから『いもじの天神』ともいいます。鋳物師とは、一般に各地を移動して鍋釜・寺院の鐘・半鐘・鋳物・細工等の生産に携わる職業集団を指し、中世後期から近世初めにかけて次第に各地に定住するようになり、静岡や姫路他各地にもその地名があります。北村鋳物師も軒を連ねて繁昌し「鋳物師千軒」と呼ばれた時期のあったことが『川辺郡誌』に記されています。また、京都の空也堂の叩鐘と鉦鼓の各々に「伊丹住某作」との銘があり、遠方から注文のあった様子が伺えます。この叩鐘と鉦鼓については「後世の偽作」ともいわれていますが、たとえ偽作であってもその名を騙られる程、伊丹の鋳物師が鋳造において有名であったことがわかります。

当宮より300メートル西北には八世紀初頭創建の法隆寺式伽藍配置の古代大寺院跡があります。創建当時は今の法隆寺程の立派な大寺院であったらしく、昭和41年に国の史跡に指定されています。その廃寺の礎石が何故か当宮境内に数基あります。(「天満宮の御祠はもと大鹿村に在ったが大鹿村が全村日蓮宗に帰依したので、そのときに現在地に移した」との説もあります。





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