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臂岡天満宮

鋳物師1丁目






 




伊丹廃寺の礎石

 
 臂岡天満宮は猪名川右岸の伊丹段丘上にあります。祭神の菅原道真(845〜903)は、平安時代中期、学者の家系に生まれました。政治家としても腕をふるい、右大臣にまで登り詰めましたが、藤原氏の陰謀により突然、大宰府に左遷されました。
醍醐天皇の901年(昌泰4)、道真が大宰府へ向かう途中、当景勝地に立ち寄り臂を枕に休息されたので、以後、この岡を臂岡と呼ぶようになったといいます。このとき、橘姓、大路姓の村人が公に粗茶を献上したといわれています。公はこの地を去るとき、「吾れ赦免となって生あらば此地繁昌の霊地となすべし」との誓いを立てて大宰府へ下りましたが、許されることなく、903年(延喜3)2月25日に59歳で筑紫太宰府の「府の南館(榎寺跡)」にて亡くなりました。没後90年を経た993年(正暦4)になって赦免され、正一位太政大臣の官位が贈られました。そのことを公の霊前に報告のため、筑紫に下った勅使が帰京の途中、生前、公が聖地繁昌を誓われたことに因み、この地に社を建て、公の肖像を納めたのが当宮の起こりとされています。
 当宮は北村鋳物師にあることから「いもじの天神」ともいいます。鋳物師とは、一般に各地を移動して鍋釜・寺院の鐘・半鐘・鋳物・細工等の生産に携わる職人集団を指し、中世後期から近世初めにかけて次第に各地に定住するようになり、静岡や姫路他各地にもその地名があります。北村鋳物師も軒を連ねて繁昌し「いもじ千軒」と呼ばれた時期のあったことが『川辺郡誌』に記されています。また京都の空也堂の叩鐘と鉦鼓の各々に「伊丹住某作」との銘があり、遠方から注文のあった様子が窺がえます。この叩鐘と鉦鼓については「後世の偽作」ともいわれていますが、たとえ偽作であってもその名を騙られるほど、伊丹の鋳物師が鋳造において有名であったことがわかります。
 また天満宮の御祠はもと大鹿村に在ったが大鹿村が全村日蓮宗に帰依したので、そのときに臂岡天満宮が現在地に移されたとの説もあります。

* 伊丹廃寺の礎石が何故か当宮境内に数基ありますが理由はよくわかりません。





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