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妙宣寺

大鹿四丁目  市バス 「緑ヶ丘小学校前」西





妙宣寺の竹塚


大覚山妙宣寺の創建については確たる資料はありませんが、大鹿村には「大覚大僧正が西国巡化の途中、旱魃で苦しむ村民に請われて、雨請祈祷を行い村民の願いに応えたので、真言宗であった当寺を法華宗に改宗した」と言われています。これが所謂「大鹿丸法華」といわれるものです。
大覚山妙宣寺は、山号が示すように大覚大僧正(1295〜1364)のゆかりの寺であったと考えられます。それは当寺に大僧正自筆といわれる本尊曼陀羅が二幅もあること、また、大僧正の坐像があり、現代も村には大覚講が存続していることなど、大覚大僧正との深いつながりがあったことを物語っていると思われます。

応永二十七年(1420)妙顕派から分立した日隆上人は、尼崎に本興寺を、京都に本能寺を建立し、ここを拠点として教線を近畿・瀬戸内に拡げていきました。伊丹には大覚大僧正の縁故をたどって大鹿に至り、妙宣寺の寺号・寺院を形成していったようです。寛永十年(1633)の本能寺末寺帳には、摂津の国末寺の筆頭に「大志賀妙宣寺」として幕府に届けられ承認されています。妙宣寺には「南無妙法蓮華経」の本尊曼陀羅等、日隆以降歴代の高僧の曼陀羅が伝蔵されており、その量・質ともに、地方寺院では見ることの出来ないものであります。これは当寺が日隆門派や本門法華宗の中で如何に重要な位置を占めていたかを物語っています。

明暦二年(1656)に大鹿住人一同の奉賛で御影堂が建てられ、寛文九年(1669)には伽藍の大造替工事が行われ、ついで、日隆上人像・日蓮聖人像・大覚大僧正像と堂内の坐像が造立されていきました(1687〜1713)。このように妙宣寺が、地方でも稀にみるような寺観を整えるようになった背景には、当時の伊丹・大鹿の酒造業の隆盛と無縁ではないと考えられます。

当寺の門前には、『大覚さん』と呼ばれている小さな堂があり、村人の大覚信仰の祠となっております。その傍らに大覚大僧正が村人を教化し、立ち去る際、手にした杖を土中にさしたところ、大僧正の予言どおり、紫竹が生えだしたとの伝承があり、今も紫竹が群生しています。

また、当寺から100メートル西方に経塚といわれる塚があります。この塚には、観応二年(1351)妙宣寺が法華宗に改宗したとき、真言宗の仏像・経巻・釈書等をことごとくここに埋めたという伝承があります。







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