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鴻池稲荷祠碑

鴻池6丁目





鴻池稲荷祠碑

 
 稲荷祠碑は405字の碑文から成り、鴻池家の生い立ち、伊丹の酒造りの歴史を知る手がかりとなるものです。更に碑文作成の事情も併せて記されています。
 近世初期、当地において酒造業を始め江戸積みで財をなした山中家は大坂へ分家・進出し、屋敷の裏にある大きな池、鴻池の名にちなみ鴻池を屋号としました。酒造業のほか、海運業・両替商を営み豪商となりました。碑文によると山中家は、尼子氏の武将山中鹿介の子として生まれた幸元を初代とし、1600年(慶長5)この地において、それまでの濁酒から清酒を造ることに成功しました。これを記念して邸内に稲荷祠を建て、守護神となし、一族そろっての参拝をかかさなかったと伝えられています。
 1763年(宝暦13)秋の大風で壊れた祠を、1784年(天明4)に復旧した折り、その事情を残すため祠碑が造られました。花崗岩製の亀趺(きふ)(亀型台石)の上に「布貨(ふか)」(中国古代の貨幣)を型取った砂岩製の珍しい碑身が立っています。碑文の書は、山中家が経済的に支援し、その発展に尽くした懐徳堂の教授・中井履軒の手になるものです。造られたのは1800年(寛政12)頃と推定されています。
 稲荷祠碑は幕末に持ち去られ行方不明となっていましたが、明治年間に大阪市南区八幡筋の骨董屋の店先にあるのを鴻池家が買い取り、瓦町別邸内に移し更に昭和の初め当地に建て直されました。
 戦後は全く放置され一部が破損し判読不明になっていましたが、1991年(平成3)市の文化財(史跡)に指定され、保存処理が施されました。





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