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新田土地改良碑

中野北4丁目





土地改良碑



顕彰碑

 
 土地改良碑の碑文には、浅野孫左衛門が中野を開拓したことから、孫左衛門池が埋め立てられるまでのことが次のように記されています。即ち、「この地は寛永7年(1630)浅野孫左衛門が開発したもので、その名を新田中野村と称した。開発するに先立ち寛永6年(1629)に池が掘られ、開拓者の名をとって孫左衛門池と名づけられた」[昭和42年(1967)3月]とあります。
 なお、孫左衛門池は現在埋め立てられ宅地になっています。
 旧新田中野村は現在の中野・東野・西野地区を中心にした約200haの地域です。今から、390年程前、浅野孫左衛門ら8人が昆陽村地内の柴野を開墾したいと幕府に願い出ました。昆陽村本郷以外の者が開発を願い出たわけですが、1629年(寛永6)にやっと許可が下りました。これに驚いて昆陽村本郷から「開発は本郷の者に仰せ付けられたい」と願い出ましたが、幕府は、孫左衛門の願いは年来のものでその間、昆陽村本郷の者がなんの反応も示さずにいて、今さら昆陽村が願い出るとは不届きであるとして、孫左衛門の開発願いを認めたものです。
 1630年(寛永7)から幕府の保護を受けて開発を始め、各地から46世帯約150人の人々を呼び集めています。1677年(延宝5)には、開発面積は122町3反3畝25歩(122ha)にのぼっています。この事業は、伊丹市域の新田開発としては最大規模のもので、本村(昆陽村)から独立して1村をつくった新田としては唯一の例です。





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