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正覚寺

伊丹市4丁目   市バス南本町1丁目









鐘楼門



願成山正覚寺(がんじょうさんしょうかくじ)は、浄土宗大本山京都百万遍知恩寺末寺であったのが、いまは知恩院末寺となっています。文明元年(1469)の創建で開基は馨栄(きょうえい)上人です。今の本堂は、宝永四年(1707)建立(有岡庄年代秘記)とあり、 安政三年(1856)に大改修をしました。本尊は、阿弥陀如来坐像で、年代は江戸時代といわれますが、行基作との伝承もあり詳しくは判りません。山門は鐘楼門で文化6年(1809)の建立です。

本堂内陣格天井「花丸(はなまる)」は、99ある格間に金箔を施し、その上に丸く種々の花を彩色したもので、珍し いものとされています。なお、建造に携わった職人の記録があり、塗物師・奈良屋彦兵衛、色彩師・今末新兵衛、箔押師・箔屋嘉兵衛と記されています。

墓地には、金本摩斎(まさい)、古野源兵衛将盈(まさみつ)、山口太乙(だいおつ)の墓があります。

■金本摩斎の墓 (1829〜1871)
名は相観、通称顕蔵といいました。号は摩斎、楽山堂、鉄肝生、亦は椒園と称しました。
出雲の国、
神門(かんど)郡高松村の下横八幡宮の神官の家に生まれ、幼い頃より才知に優れ、儒学者伊藤宣堂の門で漢学を究め、大阪に出て篠崎小竹の塾に通って学を進めました。  安政四年(1857)29歳で明倫堂の2代目教頭に招かれましたが、明治元年明倫堂廃校により伊丹を離れ、京で尊皇論を唱えました。明治2年捕らえられ明治4年(1871)藤堂家伊勢津の獄舎で病死し、正覚寺に妻と共に埋葬されています。 享年43歳
墓碑銘
  椒園金本先生墓、その左側に妻駒尾の貞静鯰江氏墓があります。

■山口太乙の墓(1800〜1854)
名は恭、通称平右衛門、号は太乙と称しました。
山口家、は東西に分かれ酒造業を営んだ豪商で、太乙は伊丹の野田に住み、西の山口といいました。
天保11年(1840)氏神猪名野神社社頭に巨大な石灯籠を同族と共に奉納しました。酒茶を好み俳人として活躍し、岡田糠人(ぬかんど)と共に幕末の伊丹俳壇の双璧と称すべき人物です。 
  
 
『雲の香や花に間のなき山の色』    太乙

嘉永七年(1854)55歳で没し、俳人として著名な妻と共に境内に葬られました。
法名は、景誉義翫太乙居士、妻の米女、は精誉翫月米順大姉。

古野源兵衛将盈の墓(1773〜1837)
天明六年(1786)15歳のとき、兄の急死で糀屋(こうじや) を継ぎ、源兵衛と改名。跡継ぎ邦好が成人に及んで家督を譲り正覚寺に弟子入りし、数年後剃髪して多田院西方寺11世を継ぎ、天保8年(1837)65歳で死去しました。往年、町庄屋を勤め伊丹の郷土史家としても知られ、正覚寺時代文政年間(1818〜1830)の頃「有岡庄年代秘記」など貴重な遺稿を残しています。法名は心誉道安禅定門。境内の墓地に葬られています。






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