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墨染寺 中央6丁目市バス「伊丹シティホテル前」南へすぐ






「女郎塚」の碑
 曹洞宗、華嶽山(かがくさん)墨染寺は天正年間(1573〜1591)に華岳常盛居土菩提のために以前あった小庵を復興して開基したといわれています。その頃、京都深草の豊臣秀吉の家臣、大嶋久左衛門の娘が伊丹へ嫁いだとき、領内の墨染薬師(3尺)の尊像を安心仏として持参して小庵にお祀りしたのが墨染寺と称する始まりと伝わっています。
 本堂は宝永年間(1704〜1711)に上島家により再建され、釈迦牟尼如来像を本尊とし以後曹洞宗となりました。1995年(平成7)に全面的に改築されました。 薬師堂内安置の木造薬師如来坐像は、鎌倉末期か南北朝時代の作と考えられています。
 境内には上島鬼貫や荒木村重に関係する石造遺品や飛騨出身の名工の谷口与鹿の墓などがあり、鬼貫の菩提寺、村重の供養地となっています。
 墓地の一隅に鬼貫碑と句碑「秋ハ物の 月夜烏は いつも鳴」が並んでおり、句碑の碑陰に「弘化二年(1845)己八月建立」と梶曲阜の句が刻まれています。
 また、6歳で没した鬼貫の長男、永太郎の墓があり、その側面に鬼貫の戒名が刻まれていて、親子墓または故郷墓と呼ばれています。本墓は大阪天王寺の曹洞宗寺院鳳林寺にあります。
 女郎塚は有岡城落城により処刑された婦女子の供養に建立したと伝えられ、正面に「女郎塚」と草書体で、右側面に「天正七年(1579)巳卯十二月十三日落城」と刻まれています。
 また、村重を供養する正和二年層塔はすべて花崗岩製で、一見九層の塔のようですが、残欠を寄せ集めたものです。笠の軒下に垂木形を造りだしているものとそうでないものが混じっています。一番下の台石は層塔の基礎で北面に銘文の痕跡が認められ、「正和二年(1313)癸丑二月廿九日 一結衆□□」と読め、市内最古の有銘遺品です。この塔は、もと鵯塚の上に立っていたのを近世後期にここに移したと伝えられています。基礎や塔身はそのときに造られたものと考えられています。  上臈塚砦は有岡城の西につくられた砦です。現在は伊丹シティホテルや墨染寺などがあるこの砦は、上臈塚古墳(4世紀後半の前方後円墳)の上に造られています。
  信長軍の攻撃を受けた際は、村重配下の中西新八郎がこの砦を守っていたのですが、信長方の滝川一益の調略によって陥落。これがきっかけで、残る岸の砦、鵯塚砦も陥落し、有岡城落城のきっかけとなった砦です。
 上述の通り、墨染寺には「女郎塚」という碑が建てられています。落城の際に処刑された女性たちを供養するために建てられたとするのが一般的な説ですが、この砦の名前が上臈であることと落城のきっかけとなった砦を後世に伝えるために建てられたという説もあります。落城後、砦は破壊され、周辺の堀を埋める土として使われました。






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