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頼山陽遺愛の柿

宮ノ前2丁目






台柿がある日本庭園



頼山陽が愛した台柿

 
 旧岡田家邸内には、樹齢350年を超える大きな台柿の木がありました。この柿は一見すると富有柿に似ていますが渋柿で、ヘタの周りに凹みができて、周囲の実が盛り上がっていることから、「台柿」と呼ばれていました。
 頼山陽が1829年(文政12)10月22日、伊丹に来遊し「剣菱」坂上桐陰邸で開かれた宴会のデザートに出された大きな台柿を食べたところ、あまりの美味しさにお代りを所望しましたが、「この柿は岡田柿園方に老樹が一本あるだけで他にない物だから」と諦めてもらったということです。 このときの様子を山陽が漢詩文に詳記し、画家、田能村竹田がその台柿を描いた「柿記」が、岡田家に贈られました。
この台柿の木は、1988年(昭和63)伊丹市立工芸センターの建設工事に伴う移植に失敗し、翌年枯死しました。現在は「第二世、頼山陽ゆかりの柿の木」が柿衞文庫の庭に往時を偲ばせています。
 山陽は1824年(文政7)「戯作摂州歌」の一節で「戯作摂州歌」の一節で「伊丹剣稜美如何 各酹一杯能飲麼(伊丹の剣稜 美は如何 各おの一杯を酹ぐ 能く飲むや)」と詠み、この詩がきっかけに、剣菱の主人との交際が始まったといわれています。





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