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昆陽寺

寺本2丁目




昆陽寺山門




昆陽寺観音堂

 
【歴史】
 崑崙山昆陽寺は僧行基が創建した畿内四十九院の一つとされ、『行基年譜』所載の昆陽施院(731年(天平3)建立)の系譜をひく寺というのが通説でした。最近はこの説に否定的な見方が多く、昆陽寺は昆陽布施屋の後身寺院であるとする説が有力となっております。その理由は、昆陽施院の所在地が摂津国河邊郡山本村であるのに対して、『天平十三年記』の昆陽布施屋は河邊郡昆陽里所在とされ、昆陽布施屋があった場所に昆陽寺が立地するとするものです。行基が昆陽池を造った頃、傍らに小さな「こや」(小屋)を建て、旅で困った人や病人達を救護したり、貢調運脚夫を収容するのが布施屋設立の目的です。
 その後、1579年(天正7)に昆陽寺は荒木村重と織田信長の合戦で、信長の兵火にかかって堂塔は焼失し、それ以前の建物は何一つ残っていません。現在の建物は江戸時代に再建されたものです。
 本堂は阪神・淡路大震災により大きな被害を受けましたが、後世まで伝えるよう古い材木も使って再建されました。山門・観音堂・もと山門にあった二天像(広目天・多聞天立像)は兵庫県の有形文化財の指定を受けています。
【建築】
(山門)
 山門は上層周囲に縁をめぐらし、細部にみる絵様繰形(えようくりがた)の形式手法は、江戸時代中期のそれをよく伝えています。内部戸口柱を通柱として、上層柱をも兼ねる構法は珍しい。斗拱(ときょう)部中備え間斗上の双斗肘木や妻飾虹梁下の大斗花肘木(だいとはなひじき)の意匠は、なお前代の余風を伝えています。
(観音堂)
 観音堂は4面に軒柱を建て、その軒内の3面に切り目縁をめぐらし、正面に一間の向拝をつけています。内部は二区に分け、内陣は背面の軒内を取り入れて一室とし、中央間左右柱を粽(ちまき)付き来迎柱とし、和様の仏壇を置いてあります。簡素な建物ですが、縁回りの海老虹梁や向拝などの手法は、江戸時代初期の風格をよく示しています。特に、花肘木の絵様繰形から17世紀中頃の建築と推定されています。
【仏像】
 二天像(広目天・多聞天立像)は等身で、像高は広目天が173cm、多聞天が164cm、おおらかな表現と一本造りの古風な技法から11世紀に京都の有力仏師によって造られたと考えられます。
【その他】
 付近には、多くの塔頭がありましたが、現在は、遍照院・一乗院・正覚院・成就院しか残っていません。昆陽寺境内には行基の歌碑が建てられています。行基の父母への切ない思慕がひしひしと伝わってきます。
   山鳥の ほろほろとなく 声きけば
            父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ        行基
 他にも、境内には後醍醐天皇の歌碑と山門前には飯尾宗祇の句碑があります。
 また、鐘楼は1789年(寛永元)の建立で、『今昔物語集』には摂津国の小屋寺で鐘が盗まれた話があります。現在の梵鐘は4代目で、1760年(宝暦10)製。

              
  絵様繰形と斗拱中備え間斗の双斗肘木      妻飾虹梁下の大斗花肘木

            
                  海老虹梁





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