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萬徳寺

北本町一丁目




天正7年(1579)、荒木村重の居城「有岡城」が織田信長の手勢により落城します。一方ではその年、安土城の天守閣が落成しました。信長は伊丹の城郭を灰燼にして、多くの人々を焼き殺し、一方では壮麗無比なる大天守閣を築いていたのです。ただ、3年後に信長も本能寺で自害します。まさに、戦乱の真っ只中の頃です。

【亀井山萬徳寺開基】
「亀井山萬徳寺由緒沿革畧記」(4代住職了願筆)によれば、現在の萬徳寺は有岡城落城以前にすでに“正覚山真光寺”として存在し、親鸞末寺の念仏道場として了秀が住職を勤めていました。了秀は荒木村重とは茶道友達として深い親交が有り、有岡城の落城とともに討ち死にし、真光寺も廃寺となりました。
亀井山(きせいさん)萬徳寺の開基は有岡城消失の翌年、即ち天正8年(1580)になります。一木一草焼き払われてからわずか1年後、まだ白骨も散乱していたのではないでしょうか。おそらくは信長の目を気にしながらの事でしょう。
この廃寺跡に、村重、了秀や多くの婦女子の菩提を弔うために、宗慶(了秀の叔父)が草庵を造ります。これが今日に亀井山萬徳寺の中興の開基と言われています。ちなみに、山号の亀井山は了秀が村重のお茶に呼ばれた時に茶の湯を汲んだ井戸が亀の井戸と呼ばれていたために、寛永4年に了願が萬徳寺と改めたときに井戸の名前を取ってつけたものと思われます。その後にも3回の火災に遭い、近年まで残されていたのは本堂が正徳元年(1711)造営、庫裡と山門が享保11年(1726)落成したものです。ただ、阪神大震災で大きな被害が出たため、平成9年に再建され、当時の面影を残すものとしては山門だけになりました。
しかし、現在は山門も新しくなっています。

【仏像他】
本尊は阿弥陀如来立像(伝恵信僧都作)を中心に、右に親鸞聖人、左に蓮如上人がまた右側面には聖徳太子、左側面には七高僧の画副がまつられています。古文書としては4代目住職了願(元禄時代)1688〜1703)による「亀井山萬徳寺由緒沿革畧記」が残されています。

【俳諧との繋がり】
萬徳寺が再興された元禄時代は伊丹には上島鬼貫がいて、後に“伊丹風”と称される俳風を形成しています。東の松尾芭蕉、西の上島鬼貫と呼ばれ伊丹には多くの俳人が去来していました。萬徳寺の住職もこれらの知識人との交流が厚かったと思われ、江戸時代の俳諧軸物、俳画、短冊などを多く所蔵されています。別名俳諧寺とも呼ばれています。


(文責 林 亨)




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