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旧西国街道

 
【概要】
 西国街道は京都東寺口から西宮神社までの全長約52kmの交通路で、東寺の門前を起点とし、大阪府下を経て下河原で伊丹市域に入ります。伊丹市内における西国街道はほぼ国道171号線の南に沿って走っており、北村にある辻の碑を西に伊丹坂を登り、大鹿、千僧、昆陽を過ぎ、寺本を経て、尼崎市西昆陽にある髭の茶屋から武庫川を渡り、西宮神社に至ります。西宮からは山陽道に合流し、さらに西へと伸びていきます。
【歴史】
 奈良時代の山陽道までさかのぼり、8世紀のはじめ律令制に基づく中央集権国家体制に伴い整備された、都と太宰府を結ぶ主要道として位置づけられました。江戸時代になると、街道は江戸を中心に整備した五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)となり、山陽道は脇街道へと格下げされ西国街道と呼ばれました。
 西国街道のうち山崎から西宮まで各宿駅を経て、兵庫に至る道を「山崎通」と呼び、山崎(大山崎町)、芥川(高槻市)、郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、昆陽(伊丹市)、西宮(西宮市)と6つの宿場があり、昆陽には大名が泊まる本陣がありました。
 京都と西宮方面をつなぐ最短ルートとして重視され、江戸時代には西国大名の参勤交代に利用されたほか、商人や巡礼などが行き交い、松尾芭蕉や伊能忠敬らもこの道を通ったと伝えられています。近在の人々にとっては、村から村へ、住まいから田畑へ行き来したり、世間話に興じたりする日常生活の場でもありました。  



稲野村道路元標






 道路元標は道路の起点・終点や主な経過点を標示する標識で、1919年(大正8)以降に各町村の主要道路の交差点に設置されました。 
 この道路元標は西国街道と有馬道が交差する四つ辻に設置されています。  

稲野小学校前の道標



 
 この道標の元の設置場所はここより西の西国街道と有馬道の交差する四つ辻(「札場の辻」)にありました。
 道標の四面に「すぐ京都」「すぐ中山・小濱」「すぐ西宮」「すぐ尼ヶ崎・大坂」と刻まれています。この「すぐ」という言葉は「まっすぐ行くと…へ至る」という意味です。  

長勢橋の碑



 この碑は西国街道沿いありましたが、児童公園ができたときに、植え込みの中に移されました。1864年(元治元)蛤御門の変で敗走した長州勢がここにあった橋のところで踏みとどまって戦ったと伝わります。碑の右側には「慶応四辰正月三日」とあり、1868年(慶応4)の鳥羽・伏見の戦いとの関係が想起されます。  

東天神社



 

 
 東天神社は、昆陽村の東の氏神で、祭神は伊弉諾尊(いざなきのみこと)と伊弉册尊(いざなみのみこと)です。神社内の由緒によれば、「天平年間(729−749)に行基法師が昆陽大池その他猪名野笹原を開拓せられた時その事業達成の祈願所とせられた由緒ある神社で、伊弉諾尊、伊弉册尊はご夫婦の神様、万物の生みの祖神として生命の祖神、延いては息災延命長寿の信仰を以って尊崇されている神社である」とのことです。
 有馬道はこの神社の境内を迂回していて、鳥居前の塀側に道標があります。西面には「右大坂・尼ヶ崎」、南面には「左中山・三田・小濱・有馬」と記されています。境内には西行法師の歌碑があります。

「津の国の芦のまろやの寂しさは冬こそわけて訪うべかりけれ 」
                       (『山家集』)

 作者の西行法師は平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人で、俗名佐藤義清といい、鳥羽上皇に仕えた北面の武士でしたが、23歳で出家しました。出家後はあちらこちらに草庵を結び、旅を住処にしていました。


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