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松源寺(阿部備中守正次の墓)

口酒井1丁目






阿部正次の墓碑(五輪塔)


 武蔵国岩槻藩阿部正次が口酒井・岩屋村などを領有することになったのは、1626年(寛永3)大坂城代に任じられてからのことです。大坂城代は、大坂城中を警護し大坂市中を管轄すること、摂津・河内・和泉・播磨にある幕府の直轄地から租税を徴収することを任としました。さらに、西国の諸大名の動静を見守り、西日本に非常の事態がおきたときには将軍を代行してこれを処理する大権も将軍から委ねられていました。正次は、その大役を果たすために、摂津の国の豊島・川辺・有馬・能勢の内3万石の加増を受け、併せて8万6千石を領有、以後1648年(慶安元)までその領有が続きました。正次は、病のため1647年(正保4)11月13日大坂城代の職を辞し、翌14日に亡くなりました(享年79歳)。生前、閑静で景色のよい所として酒井村(口酒井)が特にお気に入りで河漁によく訪れた縁から、同村で火葬に付され墓所もつくられました。現在、黄檗宗の不老山松源寺の前に火葬墓があります。また、松源寺の位牌に「英隆院殿前備州大守従四位運誉豪翁覚了居士」とあります。この墓は五輪塔で、基礎を欠失しており、塔身以上の現高が61.4cmであるところから、もとの総高は約90cmであったと推定されます。花崗岩製で、塔身の高さは23.6cm、笠の高さは19.4cmで、軒は全体に反りが目立ち、四柱の屋根の流れも全体に反転を見せています。請花と宝珠は一石彫成で請花の高さは9cm、宝珠は14.4cmあります。このような徹底した小型塔が造られるようになるのは室町中期以後ですが、この塔は、塔身が壷形であることや、笠の軒や屋根の反りが鮮やかであること、鉢形の請花や球形の宝珠などその構造形式はよく鎌倉時代の特徴をとどめています。南北朝時代の中期を下るものではありません。





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