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江戸時代前期に新田中野の開墾を成し遂げ、中野村の初代庄屋となりました。
寛永年間(1624〜1642)に浅野孫左衛門ら8人が、幕府の直領で代官、間宮三郎右衛門の支配下にあった昆陽村地内の柴野の開発を幕府に願い出て、寛永6年(1629)に認められました。昆陽村から昆陽村本郷意外の者の開発許可に対し、異議申し立てがなされましたが、孫左衛門らの数年来の願いの間、昆陽村の者が何の反応も示さなかったことで退けられました。
孫左衛門らは、翌7年からまず神殿に必要な農業用水として孫左衛門池をはじめ6つの池を築造しました。各地より46世帯・約150人の人々が呼び寄せられ、48年後の延宝5年(1677)には、開発面積は122町3反3畝25歩(122ha)に上っています。このようにして新田中野が生まれました。
孫左衛門の出自は不明ですが、新田開発願いの文書に名字が書いているので武士の出であったと思われます。孫左衛門は新田中野村の完成を見届けて52歳で亡くなりました。墓碑は常休寺にあります。


■土地改良碑


■顕彰碑


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