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 ”我、甚だ臭きかな。彼の頭に血を蒙れる女を、遠く引き棄てよ。” この言葉は「日本霊異記」中巻「行基大徳、天眼を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵噴する縁」に出てくる。
この言葉は本当に行基のお言葉だろうかと一瞬疑った。慈悲深い仏の道を説く行基がなぜ このように”臭き女”を罵倒したのだろうか。仏教の教えは「不殺生」「平等」の筈である。しかし、よく考えてみると、行基が女を群衆の面前で叱咤する事によって、民衆に直に「殺生戒」を教えたのであろう。民衆を引きつけるには慈愛だけでなく厳しさが必要であった。

☆行基の出生
 行基は天智天皇が近江の大津の宮で即位した年(668年)河内の大鳥郡に生れ、父は高志才智、母は蜂田古爾比売、高志氏は王爾の子孫あるといい、生まれた場所は母方の家で、彼が後、慶雲元年(704年)にその生家を寺に改め造ったのが家原寺である。
 仏教が日本に伝来した当初には、百済、新羅、高句麗からたてまつった僧侶が多かったが、やがて日本人の中から僧侶が出るようになると、目立つ活躍をしたものに帰化人の出身者が多く、智蔵、道融、道昭らがそれで奈良時代の義淵、智光、良弁らも帰化人出身で、これは帰化人が仏教受容に便宜な条件を備えていたためであり、行基が帰化人書氏から分派した高志氏に出たのも、こうした趨勢による。

☆行基の出家と師・・道昭
 道昭が飛鳥寺の東南隅に禅寺を建てたのは、行基が生れる6年前の天智元年(662年)のことで、白薙4年(653年)30歳で入唐し、玄奘三蔵から法相宗の教えを学び、斎明7年(661年)多くの経典を携えて帰国し、この飛鳥寺の禅院で多くの弟子を教えていた。
 天智天皇が崩じた翌年(672年)に壬申の乱がおきた時は、行基5歳であった。
壬申の乱には吉野側、近江側とも寺院の後ろ盾が大きな勢力となっていた。この乱で勝利を得て、飛鳥に即位した天武天皇は律令体制を厳しく整え、寺院や僧尼に対しても厳しい統制をしいた。
 行基が出家したのは、天武11年(682年)15歳の時である。律令制では一般の人は容易に僧尼になることは出来ず、出家した者も自由な行動は認められなかった。行基は五位の国守を出している帰化人の中級豪族高志氏に生れたことや、道昭のような有力な僧侶を身近に持っていたことも有り、仏門への道を選んだものと考えられる。 天武9年(680年)薬師寺が建て始められ、200人を得度させたが、行基が出家する2年前であり、その得度者中には行基は入らない。(井上馨氏は行基が薬師寺で得度を受けたと言っているが、道昭のいた飛鳥寺を出家の場所と考えたほうが妥当であろう。) 行基が出家したとき、道昭は54歳で飛鳥寺の禅院で弟子を養成していた事は「続記」道昭伝に、「天下の行業の徒、和尚に従って禅を学ぶ」と記されている。また社会事業にも努め「天下に周遊して路傍に井を穿ち、諸々の津の済の処に船を儲け、橋を造る。乃ち山背の国の宇治橋は和尚の創造する所のものなり」と伝えられている。道昭は、民間伝道と社会事業に活動するという新しいタイプの僧であった。行基はこの道昭に随従して廻り、実地に薫陶を受けたに違いない。道昭は文武4年(700年)7月4日飛鳥寺の禅院で死んだ。

☆行基菩薩・・伝道と社会事業
 師を失った行基はこの時33歳で。すでに独自で活動できる年齢に達していた。道昭と死別した年の6月から編集が始められた律令が翌年、大宝元年(701年)に完成し、次の年に大宝律令として実施された。これにより支配体制が確立され、収奪はいっそう厳しくなった。農民は律令制の収奪からの逃避、労役の軽減、農業生産の発展などを望でおり、行基は積極的に民間伝道を始めた。その様子は「続記」に、「都鄙に周遊して衆生を教化す。道俗、化を慕いて追従する者、ややもすれば千を以て数ふ。所行の処、和尚の来るを聞けば、巷に居人なく、争い来たりて礼拝す。器に随ひて誘導し、ことごとく善に赴かしむ。時の人号して行基菩薩と曰ふ。留止する処に皆道場を建つ。その畿内におよそ四十九処、諸道にもまた往々にして在り。」とみえ、行基菩薩という名は官から与えられた称号でなく、民間より呼ばわれた名であった。行儀の伝道が社会に投じたのは、抑圧と貧困からの解放を望む民衆のために、池溝開発などの社会事業を営みながら活動したからである。「続記」に「親から弟子を率いて諸々の要害の処に於いて橋を造り堤を築くに、見聞の及ぶところはことごとく来たりて功を加え、不日にして成る。」と記されている。(彼の残した事業に就いては別に記す。)

☆律令国家と行基への弾圧
 和銅元年(708年)平城京の造営が始まり、一層過酷となった負担と労役のため、調庸運脚夫で餓死する者や、役民 、衛士で造都の現場から逃亡する者が多かった。「諸国の役民、造都に労して奔亡猶多し。禁ずと雖も止まらず。」と。農民の負担は租庸調の米・絹・布を根幹とするが、春米と雑物の運搬は指定の日までに都に運ぶ定めであった。これらの運脚夫には都をでると何の旅賃もでなかった。行基の布施屋については、西岡虎之助氏は「旅行の窮民を救済」のためとし、和歌森太郎氏は「一般庶民の旅」の困難を救うための「接待所あるいは慈恵的旅館の一種」と記しているが、律令制のもとで庶民が旅をするよる余裕や自由は無かった筈。布施屋は交通の要地に設けられのでその地に市が出来ていた所も在ったと思われるが、実際には布施屋は運脚夫などを収容する事を第一の目標に建てられたと思われる。 行基が伝道と社会事業を始めたのは8世初頭頃からで、行基は民間ではかなりの影響力をもつ存在であった。養老元年に出された詔には、”凡そ僧尼は寺家に寂居して教えを受け道を伝う。・・小僧行基、並びに弟子ら・・妄りに罪福を説き,朋党を合わせ構え、・・・偽りて聖道と称し百姓を妖惑す。道俗は擾乱し,四民は業を棄つ。進みては釈教に違ひ、退きては法令を犯す。”と述べ、行基の活動を僧尼令違犯と断じ、寺内に寂居して道を伝えよと令した。およそ大化改新や律令制定の思想は個人を国家権力のもとに秩序ずけることである。個人が社会事業を行い、多くの民衆を指導し追従せしめる人物は為政者に取って危険人物と見なされても当然であった。民衆が”業”を捨てて行基のもとに走り集まった勢いに政府は心胆を寒うし、行基の活動に弾圧を下したのである。養老元年には行基の道場建設が無い。この年の弾圧の激しさを反映している。行基が弾圧を受けてもなお伝道を止めなかった事は、それからも道場建設を行っていることからも明らかである。

☆行基への宥和政策
 律令制定の立て役者であった藤原不比等が病死し(養老4年)変わって長屋王が政治の首座に着いたが、これもつかの間藤原武智麻呂に取って代わる。このころ人口増加のため口分田が狭小となり、農民層は一段と困窮し浮浪となって豪族に身を寄せる者も多く、政府は養老6年(722年)良田百万町歩を開墾させようとするが、うまく計画が進まなく、結局豪族の自発的な開墾に頼らざるを得なくなり、制限付きながら田地占有を認め、むしろ開墾を奨励する方針に踏み切った。行基は土木技術を持っていて、多くの池や溝、樋、堀、橋などを造り、民衆・豪族もこれに積極的に協力し、たちどころに成ったと言われている。豪族と結んだ行基的な池溝開発を政府も認めないわけにいかなくなった。これらの政治過程の中で天平3年8月(731年)(行基64歳)行基に従う優婆塞・優婆夷(仏教を信ずる在家の男女)で男61歳、女55歳以上に得度許可が下り、行基に宥和政策がとられた。天平10年(737年)の「古記」(大宝令の変更追加)には精進練行の例として「行基大徳」の行業があげられている。養老元年の詔で行基を「小僧」と貶した政府が、伝道と社会事業を続けてきた行基が民間で持っている影響力を認めざるを得なかったほかに、疫病と飢餓で民間は仏法の力に期待し、僧侶の地位が上がった事も関係している。 「天平12年正月17日行基大徳を以て大僧正と為す。」行基年譜に記される。この年78歳で、「年譜」によれば難波の地に五つの院を建てている

☆大仏造営
 行基が国分寺に関与したであろうと、前後の事情や業歴から併せて考えられているが、「続記」にも行基が国分寺創建に関係したとは記されていない。行基の49院はかれの私的な活動であり、国分寺事業とは別個のものである。もし彼が関与したのであれば、行基の伝記に詳しい「年譜」にも現れるが全く記されていない。むしろ国分寺に深く関与したのは道慈である。国分寺に関与しなかった行基はこのころ(天平12年)には京のすぐ西の泉橋院、隆福尼院、紀伊布施院・尼院を建ている。 聖武天皇が大仏造営を発願したのは天平12年2月、河内の知識寺(中世に荒廃し今は廃寺)の廬舎那仏をみたことが契機となった。国分寺の建設も思うに任せない天平15年に大仏造営が発願された。世の中は皇族と貴族、貴族と僧侶、それぞれの内部における抗争、で必ずしも安定していなかった。聖武天皇はこれらの抗争するエネルギーを吸収し、かつ不安な人心を集中統一させるため新たな事業として大仏造営を企てたに違いない。国家目標としての大仏造営は信仰より政治的意図のほうが強かった。国分寺建立では財源に国費をあて、造営は国司に任せられたが、もはや財政的に国費に頼るわけにもいかず、”広く法界に及ぼして朕が知識となし”と述べ、一枝の草や一握りの土塊まで寄進を受け入れると広く人民に呼び掛けた。また大仏に民力を結集する膳立てとして、”墾田永世私財法”が天平13年5月に発布されており、豪族らにはこの法令で土地の開発を進めさせて富を蓄えさせ、大仏に寄進させた。寄進者には位階が与えられ更に墾田開発の範囲が広げられた。 大仏造営の詔が発布され、翌17日、東海・東山・北陸三道25カ国の調庸などの物は京の紫香楽宮に貢する事が令され続いて20日には  皇帝、紫香楽宮に御す。廬舎那仏の像を造り奉らんが為に初めて寺地  を開く。是に於いて行基法師、弟子らを率いて衆庶を勧誘す。と記されている。すでに76歳の行基がとくに大仏造営費の勧進に起用されたのは、是まで40年の間、各地に知識と呼ばれる信者の集団を結んで道場を建て、社会事業を進めてきた彼の民衆を組織する手腕に政府が期待したからである。彼が大仏造営の費用を勧進することに従事したのは、是まで彼れと関係の深かった民衆を裏切って律令政府と手を結んだとする説もあるが、もともと民衆と関係が深かったので政府が行基を利用したのである。行基は薬師寺の僧と言われているが、薬師寺の景戒が著した「霊異記」には行基に関する記載で誤りが多くみられることから、薬師寺に籍が置かれていた程度で、勧進に回っていたため、定席したとは考えられない。

☆菅原寺での臨終
天平19年(747年)大仏鋳造が開始された。行基は80歳に達しており天平18年からは行基は新たな事業は行って居らず、天平20年には81歳に達しており、老いた身は右京の菅原寺で引きこもりがちとなった。 この年、は全国的に不作であり、翌天平21年には飢饉は一層ひどくなる有様で、国は飢疫の為、賑給されねば成らなかった。 この様なとき、行基は菅原寺で病み、2月2日の夜、臨終に臨み、諸院を光信に委嘱して東南院で死んだ。八日、遺言により弟子らは大倭の国平群郡生駒山の東陵で遺体を火葬にに付した。弟子の景静は遺骨を拾って器に納め、山上を結界して墓地とし、真成は舎利瓶に伝記を刻んで是を墓地に埋めた。墓は今の竹林寺にある。行基八十二歳であった。 火葬し終えた弟子の景静らが「攀号するも及ばず、瞻仰するも見るなし、唯、砕け残る舎利あるのみ、然れども蓋く軽き灰なり。故にこの器中に蔵し、以て頂来の主となす。彼の山上に界し、以て多宝の塔を慕ふ」と記されているのは今の竹林寺の墓地のことである。

☆大仏開眼
 さて、行基が死んだときには、大仏殿はまだ完成していなかった。勧進に巧みな行基を失った事は聖武天皇に取っては大きな痛手であった。またこの頃、朝廷の路傍に不穏な匿名の書を投ずる者があり、天平21年2月21日、朝廷は百官や大学の生徒を教戒しなければならなっかった。その翌日、22日に陸奥の国守百済王敬福から小田郡で黄金が出たという報告が入った。この報告で前途は急に明るくなり、4月1日聖武天皇は東大寺に行幸し、黄金出現を大仏に告げ、素直にその喜びを述べた。 年号が改められ、天平勝宝となった。十月に大仏の鋳造が終わり、12月に螺髪966箇の鋳造が始められた。勝宝4年(751年)2月に銅座の鋳造が始まり、3月からは仏体に塗金が始められた。それが終わらない内に大仏開眼の日が決められた。聖武天皇の病気の為に急がれたのである。3月21日、開眼会の導師らに招請状が発せられた。

 皇帝敬請す
    菩提僧正
   4月8日を以て斎を東大寺に設け、廬舎那仏を供養し、敬しみて辺眼を開眼せんと欲す。朕が身は疲弱にして起居するに便ならず。其れ朕に代わって筆を執るべき者は和上一人のみ。仍って開眼師に講ず。

 皇帝敬請す
    隆尊律師
   4月8日を以て斎を東大寺に設け、華厳経を講ぜんと欲す。その理、甚深にして彼の旨は究め難し。大徳の博聞多識にあらざるよりは、誰か能く方広の妙門を開示せん。乞ふ、辞すことなく扮受せよ。                            敬白

都講景静禅師  請書右の如し。       各五位をして差さしむ   
                                       天平勝宝4年3月21日

景静は行基の弟子で、行基は開眼会を待たずに死んだので、その弟子が法会に招かれたのである。
4月9日(予定より1日遅れ)の大仏開眼会には聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が文武百官をひきいて東大寺に行幸した。 行基が生駒山麓に葬られてから3年目であった。          
                            参考文献 「井上馨著 行基」吉川弘文館

【行基にまつわる歌】
☆ 大僧正行基 詠みたまひける (二首)
 ・法華経を我が得しことは薪(たきぎ)こり菜つみ水くみつかへてぞ得し (拾遺1346)
  【通釈】法華経の教えを私が得たのは何故かというに、前世において薪を樵り、菜を摘み、水を汲んで、阿私仙に仕えて得たのである。

 ・百(もも)くさに八十(やそ)くさそへて賜ひてし乳房のむくい今日ぞ我がする (拾遺1347)
  【通釈】百石に八十石を添えてお乳を与えて下さった母上の乳房への恩に、今私は報いることだ。

 南天竺より東大寺供養にあひに、菩提がなぎさに来つきたりける時よめる
 ・霊山(りやうせむ)の釈迦のみまへに契りてし真如くちせずあひみつるかな (拾遺1348)
  【通釈】霊山の説法の時、釈迦の御前で再会を誓った約束が破られることなく、また逢うことができたなあ。

 山鳥のなくを聞て
 ・山鳥のほろほろと鳴く声きけばちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ (玉葉2627)
  【通釈】山鳥がほろほろと鳴く声を聞くと、あれは父かと思うのだ。あれは母かと思うのだ。

行基年譜と昆陽施院・・・山本と昆陽の関連

行基年譜は安元元年(1175)に泉高父宿弥によって書かれたものである。行基が天平21年(749年)に亡くなってから425年がすぎている。「行基年譜」は現在我々が見ることの出来るものとしては、「続々群書類従」第3巻か、東京大学史料編纂所々蔵の水戸彰考館託写本である。何れにしてもここに記されている行基の事跡は大体信用出来ると言われている。行基年譜と伊丹について愚考してみた。

【 行基年譜に記載された伊丹地区の記述 】
★行年六十四歳
  聖武天皇八年、天正三年辛未、
  狭山池院 二月九日起、
  尼院
   巳上在二 河内國丹北郡狭山里一、
嶋陽施院 三月廿日起、
   在二 攝津國河邊郡山本村一、
  ・・・・・略
★行年七十四歳 辛巳
  聖武十八年、三月、掩二 留山城國泉橋院一、十七日申時 、天皇行幸給、  奉レ拝二 大僧正一 矣、拝訖給御座、終日談説給、爾時大僧正言、大國  者有二 給孤獨園一 而養二 息孤獨徒一 、但吾日本國無二 給孤獨園一 、   是以請二 為奈野一 而為二 給孤獨園一 ト 白支 、是天皇答給、歸命宜打 、・・・・略

★(年代不詳)
  池十五所、
   ・・・・
   昆陽上池 同下池 院前池 中布施尾池 長江池           巳上並五所河邊郡山本里
   ・・・・略
  溝七所、
   ・・・・
   昆陽上溝長一千二百丈,廣六尺、深四尺、 在二 攝津國河邊郡山本里一 
   同下池溝長一千二百丈、廣六尺、深六尺、 在二 同所一
・・・・略
  布施屋九所 見三所 破損六所云々
 ・・・・略
   昆陽布施屋 在二 川邊郡?陽里一
   ・・・・略


【山本と昆陽】
 行基年譜をまず忠実に考える事を前提に議論を進めたい。
行基年譜で『嶋陽施院』、『池5箇所』、『?陽上溝、同下池溝』の何れも
山本村、または山本里に在ったと記されており、僅かに一件の『?陽布施屋』のみが、?陽里となっている。
 多田神社に伝わる元禄十年(1697年)に書かれた『柏葉集』によれば、
   山本郷四至
    東限稲川   西限昆陽
    南限有岡   北限宇保

   山本村四至
    東限可母村  西限村西河
    南限昆陽野  北限満願寺

となっている。行基の時代とは可成り離れているが、近年まで村の地名には大きな変化が無かったものと考える。

★嶋陽施院 ;嶋陽施院を?陽施院の間違いと言われているが、根拠は字句の書き間違いと言う理由からでている。行基年譜を勝手に字句の間違いと決めつけるのは何の根拠もない。しかし嶋陽施院は山本村(山本里ではない)に在ったと記載されていることから字句の間違い説に従えば、山本村の南の限界は柏葉集によれば昆陽野であり、この辺りに昆陽施院が在ったと考えることが出来る。昆陽野の地名は、東昆陽野、西昆陽野として残っていたが、町名変更で今は山本野里3丁目と変わった。山本里となれば広くなるが、山本村現在も加茂に残っている(旧地名)事からも、昆陽施院は少なくとも昆陽野より北に在ったと考えるべきである。施院は何棟かは在った筈で、東に在った施院が東昆陽の施院で西に在ったのが西昆陽の施院と考えるのはどうか。今在る西昆陽野、東昆陽野は非常に近い所に地名が残されている事からも何らかの建物跡と考えるのは考え過ぎか。、施院は神社の様な堅牢な建物でなく、目的からして民家の程度を越えなかったのではないか。民家で千年を越えるものは少なく、歴史の中に埋没したであろう。そして地名だけが現在に伝える唯一の手がかりとなってしまった。 

★是以請二 為奈野一 而為二 給孤獨園一 ;猪名野に孤児や孤獨老人の施しをする給孤獨園(布施屋)が作られたはずである。伊丹の南行基町に破塚、行基田、来徳、行基橋などの地名もあり、この当たりが行基の給孤獨園では無かったのか。この当たりは行基が昆陽池を掘る為の工事詰め所も兼ねたとも考えられる。歴史の建造物は時と共に消失、変形していくが、地名はよく歴史を伝えると言える。町名変更で歴史的な手がかりが消えていくのは如何にも残念である。
この給孤獨園を伊丹廃寺の近辺と考え、ここに祇園精舎が在ったとする見方も在るが、伊丹廃寺は当時は山本郷に入れられていて、猪名野とは一線を画していた筈。また伊丹廃寺は歴史的にも行基より古くこの説には無理が有るように思える。伊丹廃寺は法隆寺を模した建造様式であり、国家が建設に関与したはずで、行基はあくまで民間信仰の延長に在ったことより、権力の拘わった伊丹廃寺を建てた、または給孤獨園として活用したと考えるのは無理では無かろうか。

★池と溝   ;行基の掘った山本里の5ツの池の内、昆陽上池は現在の昆陽池で在ることは諸説の通りである。他の4池に付いては現在埋められたものもあり特定できないと言うのが通説である。
池に付いては次ぎの溝と併せ考えねば成らない。昆陽上溝は昆陽上池に繋がる天神川で在ることは間違い無い。長さ千二百丈。之は約3.6kmに相当し、天神川が昆陽池の北の入り口から国道176号までで丁度3.5kmであり、国道176号線より北は周囲よりかなり落ち込んだ自然の渓流であるのに、突如天井川となって昆陽池に注ぐ。天井川が自然に出きることはなく人工的に作られたのは疑う余地が無い。昆陽下池溝は昆陽下池に注いだ川で、これは天王寺川と考えられる。これも千二百丈(約3.5km)は天井川で昆陽池に入ることなく武庫川に注いでいる。当然、昆陽下池に注いでいたはずで在るが今は昆陽下池がわからない。
溝とは、池から”流れ出す用水路”である、と説く人も居るが、昆陽池より南に3.5kmの農業用水溝が有ったとすると、これは”山本里”からはずれることに成る。行基年賦の溝は山本里に在る天神川、天王寺川を指し示しているとして間違い無いと言える。

★昆陽布施屋 ;昆陽布施屋と昆陽施院を同じとする見方も在るが昆陽布施屋は昆陽里に在ったと記載されていることから違った施設であったと考えられる。現在の昆陽本陣跡に大永2年(1522年)迄”昆陽院”と言う寺があったが現在は跡形も無い。昆陽本陣跡は現在の昆陽寺の南東にありこの当たりに昆陽布施屋が在ったと考えられないか。

行基の没後1200年以上が過ぎ、多くの業績が埋もれて今は訪ねる縁も無いが、僅かに残る地名や伝承を頼りに探るしか無いが、それもまた歴史のロマンかも知れない。

 (文責 林亨)


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