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 奈良時代の名僧。民衆に仏教を広めるだけでなく、民衆の力を背に、畿内各地で池・溝や布施屋などの施設を築造しました。伊丹では、昆陽上池(現昆陽池と推定)・昆陽下池など5つの池、昆陽上溝など2つの溝及び昆陽施院・昆陽布施屋を造りました。
 行基は河内国大鳥郡蜂田里(現堺市家原町)に生まれ、両親とも百済系渡来氏族とされています。15歳で出家・得度し、24歳で受戒し、山林修行などをしました。この間、行基と同じ渡来系で、法興寺で教えていた「道昭」の影響を受けたと考えられています。行基は三階教に触れ、37歳のとき、生家を家原寺とし、寺院から出て、民間での布教活動を始めました。行基を支持する多くの民衆の協力と渡来系先進的土木技術集団の支援を得て、畿内各地に道路・池・溝・港・施院・布施屋を造り続けました。
 平城遷都(710)の頃、過酷な徴税や労役を逃れるため、僧となる私度僧が生まれ行基のもとで集団化して行きました。朝廷は行基の布教活動の禁圧に乗り出しましたが、行基集団の信者は増え続けました。その後、朝廷は「三世一身法」により開墾を行った土地の私有を認め、田地または墾田の開墾を奨励するに至り、池溝開発を行う行基集団の活動は時代に沿ったものとなり、朝廷の行基に対する姿勢も変わりました。晩年は聖武天皇の信任を得て、大僧正に任ぜられ、東大寺大仏造立の勧進を務めましたが、大仏開眼を見ることなく、82歳の生涯を閉じ、奈良県生駒市の竹林寺に葬られました。

  

「行基」のさらに詳しい解説はこちらから

◆行基ゆかりの場所
  昆陽寺(寺本2丁目)、昆陽池(昆陽池3丁目)

■昆陽寺                       ■昆陽池

     


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