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 「学の洪庵か、術の老柳か」 幕末の洋学教育に巨大な足跡を残した蘭方医、緒方洪庵と並び称された原老柳は、天明三年(1783)二月十三日、摂州武庫郡西宮( 兵庫県西宮市 )で生まれた。幼名を金平、初名が強、字は天行、通称は左一郎、号は老柳。老柳の本姓は戸田、代々医を業としており、祖父宗哲になってからその医名が広く知られるようになった。父は良信といって二代目宗哲を称した。老柳が三歳の時に亡くなり、母いせ子によって育てられた。年譜に老柳の略歴を箇条書きで記したとおりのいきさつで、厳格な母いせ子が妻子を西宮に置いたまま放蕩する老柳に戸田姓を名乗らせなかった。

・故郷西宮と開業地伊丹

・老柳の母や妻子の住む西宮八景「津努晴嵐・御前帰帆・鳴尾落雁・入江夜雨・広田夕照・神呪晩鐘・名次秋月・武庫暮雪」

・老柳が往診に歩いた伊丹八景(有岡八景)「城山秋月・稲名野晴嵐・天津落雁・破戦道帰帆・西台夕照・雲正坂夜雨・鵯塚暮雪・野村晩鐘」

・ ♪親のうちでの 朝寝のばちで 今は初夜起き 夜中起き 初夜の鐘なら 千里もうなれ なるなうなるな 明け六つの鐘・・・と、伊丹郷町の多田道沿いに八十軒ほど造り酒屋が並び、杜氏の歌が聞けた頃、文化十四年(1817)頃から老柳は伊丹郷町で開業し始めた。 酒蔵の並んだ大通りから西の方に三十間(50m)入った所に民家が軒を連ねている。正面には格子戸がはまっており一軒の間口は九間、奥行きは六間に四戸が入った棟割長屋で、二階建てになっている。その中の一軒に、縦八寸(25cm)、横五寸の檜の板に「医所 老柳」という看板をかかげていた。

 元禄時代の伊丹は大名の城下町ではなく近衛家の公卿領で、酒都伊丹の黄金時代であり、富める者は金の使い道に風流事を求め文芸が勃興した。和歌・俳諧・連歌・狂歌・詩文読書・習字・参禅写経・謡曲歌舞・糸竹三弦・蹴鞠・瓶中挿花・囲碁・丹青(絵を描くこと)・茶など。文化人である医者に対しても待遇が良かったであろう。老柳は、医業の他に漢詩・和歌・俳諧・書に秀でていたが、母の期待に応える重圧感、蘭学への憧憬、など心の悩みから安らぎを求めて、好きな酒や遊里に溺れた時期もあった。頼山陽や篠崎小竹、新宮涼庭などの文化人と交わり、長崎遊学の際も忘れなかった丹醸の味が銘酒の産地伊丹で開業した理由のひとつであろう。遊郭通いは代々医師の家系の彼の母にとって大きな悩みではあったが、問診の際の患者や家族に対する思いやりや、説得力、あるいは洒落のきいたもの言いが備わる場でもあったかもしれない。

・老柳の盥(たらい)

 学田での人生訓は孝悌忠信仁義礼智の精神だった。盥(たらい)は仁にまつわる。伊丹で開業し始めたころから、老柳の診療所の玄関には行水が出来るほどの大きな盥が置かれていて、深さ一尺ほど水が張られていた。診療を受けた人が診療費や薬料の礼に大根・米・麦・桶・鮎などを品物で納めたが、お金で納める人は名前を書いた紙で銭を包み、水を張った盥に入れるという、他の医者には例を見ない方法をとっていた。時間がたつと紙は水に溶けて誰が幾ら払ったかが分からなくなる。これだと病気や怪我の大小と患者の貧富の差が関係ないので安心である。小判・一分金・一朱金に混じり多くの一文銭があった。そこには老柳の照れと、思いやりと、洒落っ気が垣間見られる。

・新宮凉庭との出会い以降

 素足で歩いて足の裏に異物が刺さって破傷風になり、治療が遅れて高熱が出たり取り返しのつかないことになる事は江戸幕末当時ではしばしばあったという。急患の外科治療を要する患者に対して、昔ながらの漢方と長崎で勉強し貴重な手術道具のメスを持った蘭学医者としての老柳の手腕は、同業者の新宮凉庭に感心され意気投合する面があり、彼の熱心な働きかけもあって、老柳は伊丹を去り大坂に移って多くの医師仲間と交流を深めるようになった。格式や因習の少ない大坂が、自由を好む老柳に水があっていたのだろう。大坂医師番付に老柳の名が西の大関として載った理由は「診察は確か」「夜中でも往診してくれる」「薬を出し惜しみしない」「盥の水面のように心は清く、患者を平等に扱ってくれる」「庶民の味方、老柳先生」というような評価に基づく。

 後年、わが国の種痘治療の草分けである『除痘館』設立に尽力した功績は大きい。

詳しくは、原老柳の生涯(松本順司著)をお読み下さい。

 参考文献:「原老柳の生涯 幕末大坂の名医 松本順司著 創元社発行」。肖像画:上田公長画、荻野タミ(初代松本節斎の先妻)の子孫所蔵 


原老柳年譜(1783−1854)   
元号 西暦 出来事
天明三年 1783 二月十三日、西宮札場筋で生まれる
寛政六年 1794 尼崎、江尻氏の塾に入る
寛政七年 1795 江戸へ遊学
寛政八年 1796 播磨の村上元齢に入門
寛政九年 1797 生涯の友となる松本節斎も入門
寛政十二年 1800 三代目戸田宗哲を継承、西宮で開業
文化四年 1807 辰馬何右衛門の長女テルと結婚
文化六年 1809 長男鼎が生まれる
文化八年 1811 長女珠が生まれる
文化十年 1813 二女寛が生まれる。頼山陽と父春水の仲直りをお膳立て。浮気がばれて家から追い出される。親類がお金を出し合い大坂、備後町で開業させる
文化十一年 1814 放蕩止まず、母いせ子に医療道具を西宮に持ち帰られる。老柳の号を使い始める。長崎に旅立つ
文化十二年 1815 江戸に向かう
文化十四年 1817 伊丹で開業。母から戸田を名乗ることを拒否される
文政元年 1818 勘当解かれる。母いせ子八月二十六日死去
文政六年 1823 新宮凉庭と出会う
文政八年 1825 大坂、道修町五丁目で開業。三女千枝生まれる
天保三年 1832 医師番付に登場
天保九年 1838 二男孫一郎生まれる。広瀬旭荘との交流始まる
天保十一年 1840 高麗橋筋五丁目大豆葉町に転居。医師番付西大関に。緒方洪庵は東前頭四枚目
天保十四年 1843 本因坊丈策から初段の免状
弘化元年 1844 妻テル死去
弘化二年 1845 後妻安倉キノと結婚
弘化二年 1845 医師番付総後見に
嘉永元年 1948 三男米六生まれる
嘉永二年 1849 除痘館の創設に加わる。この年、西宮の生家を建て替える
安政元年 1854 六月一日死去、七十二歳

(文責:中村享子)


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