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天正二年(1574)に伊丹氏を伊丹城から放逐した荒木村重は、丹波多紀郡波多野氏の一族だといわれています。村重の父は摂津豊島群の池田勝正に属し、村重も勝正の郎党として仕えました。
信長が摂津に進出すると、池田氏は信長に属し、村重も勝正に従い参戦しますが、池田氏の内紛に乗じて勢力を強め、天正元年(1573)、和田惟政をうち、茨城城主となりました この年、足利義昭を宇治槇島城に攻める信長勢に参加し、その功によって、信長から摂津一国の支配を任じられます。
同二年、村重は池田氏を追放し、ついで伊丹氏を滅ぼし,伊丹を本拠として摂津の有力大名となり、摂津守に叙任されました。

 摂津は、都に近く、西日本の陸海運の流通路の要地であり、戦略的にも重要性の高いところです。南北朝の内乱期以来、摂津の支配権をめぐっての混乱が長く続いたことはよく知られるところです。村重はこの摂津の支配を任ぜられ、伊丹城を有岡城と名を改め、ここに入城しました。
 しかし、村重の有岡城在住期間は長く続きませんでした。天正6年(1578)の秋以来、信長に対して異心を持つという噂が流れますが」、村重はあえて否定しません。やがて翌七年九月には、十ヶ月の籠城の末、信長の総攻撃により町は焼かれ有岡城は落城します。籠城した妻子,武将、町人など全てが処刑されましたが、村重は毛利家を頼って落ち延びます。その後、秀吉のお伽衆として召し抱えられ茶人として生き、五十二歳で天寿を全うしました。

荒木村重の生涯

 誕生〜

 祖父の時代に丹波の国から川辺郡坂根に移り住んできた。村重の父は荒木信濃守義村といい、池田六人衆の一人であったが、中年にして子宝に恵まれなかった。そこで、ある時夫婦で摂津中山の観音へ参籠し、十二の灯をかかげ、二十八品の経を転読し、「哀れ願わくば、一人の男児を授け給い、其の子の成人後は天下に威名をふるう弓取りにして給え」と祈祷した。
 これを続けていると、七日目の暁、十二の灯の光の中より明るい珠が飛び降りてきて、義村の妻の懐中に入った。夫婦は大願成就と喜び,帰路につく。
 やがて、妻は懐妊し、十五ヶ月後に普通より大きな赤ちゃんを出産する。夫婦はこの赤ちゃんに、十二の灯の影よりでてきた珠の子だから、「十二郎」と名付ける
 この十二郎、育って弥介と号し、後に摂津守村重を名乗る。村重は幼少の頃、他の少年たちより遙かに力強く、いつも弓馬の鍛錬を好み、槍太刀の勝負をもちかけていた。また、大食であった。

 ある日、父の義村が「おまえは食べることにかけては常人を越えているが、そんなものが役に立つのか?」と村重少年に聞くと、「武将たる者、筋力なくては叶わない。槍を突き、太刀を打つにも、人に過ぎ足る兵具を持たねば、勝利もない。」と豪語する。さらに、何を思ったのか、傍らにあった碁盤を引き寄せてきて、義村をその上に座らせると、盤の角を持って、座敷の隅から隅を三周まわって、元の場所まで戻った。義村は感激してこう言った。 
 「今年十二歳にして、このような怪力なら、向後は項羽を抜く。大食こそ道理なり」 永禄六年(1563)父・義村の主君である池田長正(勝正の父)が他界し、池田勘右衛門という武勇の者が勝正の対する反主流派を牽引し、家臣団を二分してしまう。この池田勘右衛門と反主流派の八名を酒宴の席にかこつけて謀殺したのが、村重であった。勝正の信頼を一気に得たのは言うまでもない。この頃、すでに父・義村は信濃守の名乗りを譲って隠居しており、村重は荒木一党を率いている。 

 永禄十一年(1568)九月、織田信長が足利義昭を奉じて入洛する。摂津諸大名はその位置関係から三好党の勢力下にあり、信長の侵攻に対して去就を迫られた。頼みとする三好党が畿内を追われたからだ。そんな中で、最も早く信長に恭順したのは伊丹親興であった。伊丹は三好三人衆と不和にあったため、兵を出して信長に呼応している。信長は伊丹親興を兵庫頭と賞し、三万貫を給したという。摂津において池田氏と並ぶ伊丹が降ったため、多くがなびくように信長に服すことになる。摂津を掌握した信長は、幕臣・和田伊賀守惟政を芥川城へ入れ、摂津守護に任じる。同時に、池田勝正と伊丹兵庫頭親興も守護に任じ、摂津三守護として治めるように命じ、この年(1569)の十二月、京都に留守部隊をいくらか残して岐阜へ戻っていった。
 しかし、三好党は、すぐに巻き返しを図る。永禄十二年(1569)正月、阿波から堺を経て、将軍義昭が仮御所にしていた京都六条の本圀寺を攻撃した。三好三人衆と最大級の激戦を演じたのは織田軍ではなく、摂津諸大名であった。それが桂川合戦である。池田、伊丹、和田、茨木などは三好三人衆と決別し、松永久秀と共に信長へ降った三好義継を押し立てて決戦に及んだのだ。この合戦はどの資料にも記載されているが、内容はまちまちである。池田勢が一番手で挑んだという『多門院日記』、双方に討死死傷者が多数でたという『言継卿記』など、中でも特筆したいのが『細川両家記』にある池田勢が途中で退却しているということだ。三好義継と共に三好三人衆に挑んだ池田筑後守勝正は、利あらずと判断して池田城に退却したという。池田氏は長らく三好党に属しており,信長が去った後あっという間に巻き返してきた三好三人衆が勝者になると読んだのかもしれない。

 もう一つ特筆すべきは『信長記』、これには参戦した武将の中に、主君・池田勝正や伊丹親興などと並んで村重の名前がある。すでに村重の力が主家をうわまりつつあったことの証かもしれない。

 元亀元年(1570)六月、村重は主君、池田勝正を追放する。彼らは勝正の弟にあたる池田備後守知正を擁立する。一種のクーデターである。池田家を実質乗っ取った村重は、三好三人衆に通ずる。クーデターの理由は、勝正の無能さに行く末を案じたというが、桂川合戦の敵前逃亡が直接の引き金になったとも考えられる。勝正は信長に任命された三守護の一人である。これを追ったことで、信長の印象を悪くしたためと、和田・伊丹との対立の溝も深くなっていたため、反信長の筆頭格・三好三人衆に通じた。
元亀二年八月、信長から摂津を任されている和田惟政は、敵対する池田を滅ぼそうと池田領の境に砦を二つ築いて挑発する。池田というが、実質は荒木一党である。結果は池田軍の圧勝に終わる。村重の従兄弟にあたる中川瀬兵衛清秀が和田惟政を打ち取り、茨木重朝は村重に打ち取られたとされている。また、高槻城は高山右近の兵と荒木一党によって占拠される。
 村重の人生を変えた出来事、それが織田信長への謁見であった。元亀四年(1573)三月二九日のこと、上洛してきた信長を近江山城の境・逢坂において出迎えての謁見である。村重は池田勝正を追放し、信長の敵である三好三人衆に通じている。また、謁見より十八日ほど前には、和田惟長を高槻城から追って、高山右近を傘下に加えている。池田・和田、共に信長が摂津支配を任せた三守護である。信長から差し出された太刀に刺さったまんじゅうを平気な様子で食べたというのはこの時のことである。
 元亀4年は、七月に天正と改元される。将軍・足利義昭は自分を奉じてくれた信長とそりが合わず、この時期すでに両者の関係は修復不可能なまでに悪くなっていた。そして、将軍義昭の画策した反信長包囲網が最盛期を迎えていたのもこの時期である。武田信玄が三方ヶ原で徳川家康を一蹴し、今が時とばかりに将軍義昭は二月に挙兵する。 信長の上洛はこれを討伐するためである。信長にとって、摂津は是非とも手中に起きたいし、対石山本願寺をにらんだ場合にも、重要な戦略拠点である。その摂津でめきめき勢力を伸ばしている村重は信長にとっても興味ある存在であったに違いない。村重にしても摂津統一の後ろ盾として信長を選ぶのは当然の流れであった。
翌天正二年、村重は池田城を攻め取り、同年十一月には伊丹城を攻略する。また、その伊丹城を改修し、大要塞へと造り替え有岡城と命名する。ついに三守護を亡ぼし、摂津の太守たる地位まで上り詰めた村重、後ろ盾の信長によって、能勢、三田、多田、有馬、大和田などの小豪族たちも寄騎につけられることになる。石山本願寺の寺領をのぞく摂津一国、およそ三十五万石が村重の所領となったわけである。岳父・池田勝正を追放してから、わずか四年の立身出世であった。

荒木村重 謀反へ

 天正六年、信長は家臣を集めて年賀の会を催した。中国地方では毛利と、北陸地方では上杉と、大阪では本願寺との戦いの最中に茶会を開くのは異例のことである。呼ばれた家臣の中に村重も含まれていた。村重にとってはまさに絶頂だったであろう。しかしそんな絶頂も長くは続かない。この年の秋頃から村重が逆心を持っているとの噂が広がりだした。
信長は直ちに伊丹に詰問史を送っている。しかし村重は安土に弁解に行くのをやめ、城に籠ってしまう。これにより摂津の小豪族のほとんどがこれに同調した。信長にとっても高槻、茨木、伊丹、尼崎、花隈、三木、御着の諸城が敵になり、摂津から播磨へと弧状に信長の中国攻略を阻んでいたのである。信長もあわてたであろう。

 有岡城では総勢一万五千余騎を城内に配置した。高槻城には高山右近の三千騎、茨木城には剛勇中川清秀の三千五百騎、毛利水軍との窓口にあたる花隈城には荒木元清など鉄壁のまもりであった。しかし、高山右近がキリシタンを殺害すると脅されて無血開城し、中川清秀も息子と信長の娘を結ばせるという条件に心を揺るがせ無血開城した。これは村重にとって大きな誤算であった。
それでも、有岡城はよく耐えた。籠城開始からおよそ十ヶ月、天正七年九月二日、村重は有岡城を脱出し、嫡男・村次の籠もる尼崎城へ入る。待てども来ない毛利の援軍を自ら呼びに行ったのか。尼崎城で新たな戦略を謀りに行ったのか・・・
 しかし今度は上蝋塚を守る中山新八郎らが裏切り、信長の軍勢が城になだれ込む。城内は敵兵によって火が放たれ、さながら地獄絵のようであった。敵将滝川一益は抵抗のすさまじさに舌を巻き「尼崎城と花隈城を渡せば妻子の命は救ってやる」と申し入れたが村重は使者の荒木久左衛門を追い返してしまう。
 ここにきてついに有岡城は落城する。妻子部下など総勢六〇〇人におよぶ処刑が尼崎七松でおこなわれたという。村重の妻だしを含む血縁の者は、京都六条川原で斬首された。有岡城落城後も、尼崎、花隈両城は信長に抵抗したが、ついに耐えきれずに毛利を頼って落ちのびる。村重は剃髪して僧形になったが僧にすらなりきれず村重という名前を捨てた。号して「道糞」道ばたの糞 自嘲的な村重の心境であった。のちに「道薫」と名を変え秀吉のお伽衆として茶の湯の道に生きる。五十二歳の生涯であった。
 墓は堺の南宋寺にあると伝えられるが実在しない。伊丹の荒村寺に位牌があり、「心英道薫禅定門」とある。

 生前に詠んだ だしの歌 

きゆる身はおしむべきにも無き物を 母のおもひぞさわりとはなる

       残しおくそのみどり子の心こそ おもいやられて悲しかりけり

   謎・その1 荒木村重はなぜ謀反をはたらいたのか

 信長に「何篇の不足候哉」 何の不足があったのかと言わしめるとおり,信長の重臣として仕え,三十五万石を与えられるようになった絶頂期の村重がなぜ謀反をおかしたのかが謎といわれる部分だが、本によりその見解びがまちまちなのでとても難しいところである。一般的にいわれている意見について考えてみたい。

 1. 石山本願寺への兵糧流しの説「陰徳太平記」 

村重の先手大将、中川清秀の部下が石山本願寺の兵糧の乏しいのを知って、夜、小舟に米を積んで売りに行ってるのが見つかり安土に注進された。村重としては、自分が敵に内通しているように疑われるのをおそれ、信長の性格を考え得て謀反に踏み切ったというものだが、兵糧流しについては摂津衆だけでなく包囲に加わっていた織田軍全てに蔓延していた。村重の籠城以降大阪湾において、毛利水軍が九鬼水軍に敗れて兵糧搬入が止まっているが、本願寺が開城したのはその二年後のことである。その時点において兵糧がそれほど渇望していたとは考えられない。石山包囲の佐久間信盛は開城後まもなく「何もせずいたずらに歳月を重ねた」として追放されているくらいだから部下のモラルも低かったと考えられるから、中川の兵糧流しの責任をとって謀反に至ったとは考えにくい。

 2. 明智光秀の謀略説

光秀が後日、信長を倒すためには村重が近くにいては邪魔になると考え、いろいろな謀略をもって村重を反抗せしめたというもの。
村重は謀反を確かめにきた信長の使節に「謀反の気はない」と答える。「それなら母上を人質にして安土に申し開きに来られよ」と言われる。安土に行く途中、中川他家臣たちに「今から言っても切腹させられるだけで犬死にである」と説得させられる。まだ決めかねていると、さらに明智からは早馬で「信長が大変な怒りで、村重陰謀は明白と詮議決定・明日にでも参着あれば取り押さえ処分」ということになっていると知らせてきたのである。明智は嫡男村次の岳父であったため、村重はその言葉を信じてしまい籠城するに至った 。実際には信長はまだ村重を思いとどまらせようとしていたという。その証拠に秀吉をその後も説得に行かせている。村重は明智にまんまと乗せられてしまったのではないか。

 3. 戦国の世の常・・村重も天下をねらったとする説

徳富蘇峰が「近代日本国民史」のなかで、「真実のところは、荒木も毛利方に転じて、一山張るつもりであったろう。当時の諸豪の去就は、現時の相場師が、朝に売り手となり、夕に買い手にまわるごとく、其の思惑次第にて、方向を転換したものだ。」といっている
毛利、本願寺、村重の連合軍は力としては信長に匹敵していたのではないか。それを証拠にちょうど村重が決起をした頃、前進しない本願寺との打開策として信長は本願寺、毛利との和睦を朝廷に申請している。高山右近、中川清秀への凋落成功により村重を孤立させることができたので、和睦を延期して一気に村重への攻撃を始めている。信長を滅ぼし自らが天下をと思ったのである。

 4. 上月城,神吉城での戦意喪失

 秀吉の副将として上月城を攻めたとき、積極的に攻めることをせず、そのため尼子氏は滅び山中鹿之助は殺された。その次の神吉城でも、敵の大将を捉えたものの首を切るに忍びず、逃がしてしまう。戦国の武将としてはあるまじき行為と信長に負い目を追ったと考え籠城する。

 武士にあるまじきこととというが、それこそが村重の特質であったのではないか。残虐な処刑を平気でおこなう信長に相容れない村重は、この頃から次第に信長から心が離れていったとも考えられる。書物からわかるように信長の性格は残虐で、一度疑いを持ったら絶対に許すことができない性格である。村重は信長のこのような性格に反感を持って、やむを得ず謀反という立場に追い込まれてしまったのではなく、もっと積極的に謀反を企てたのではないか。資料を読んでいて、信長がすぐに焼き討ち、処刑をするのに反して、村重は人質すら返していることに気づく。

@村次に嫁いでいた明智の娘

A高山右近の娘と父親 それも右近が裏切ったとわかった後、家臣の「磔にせよ」という 声を押し切って「これらの人質は自分が信長の敵にならないために右近が送ってくれた もの」といって返している

B黒田官兵衛を城主から殺すよう言われていたのに殺さず、牢に入れた。家臣の加藤重徳 が看守として親身に世話をしている。後にこの時の恩を返すため黒田は加藤の息子を  養子に迎えて面倒みている

C神吉城で降参した敵の大将を逃がす

D池田、伊丹を滅ぼした後も降参した城主に切腹を求めず追放という形をとっている    

 以上のことからも信長と村重の違いがわかる。信長が自分の理想の天下人ではないことに気づき徐々に気持ちが離れたのだと推測する。謀反に際しても毛利、本願寺との連合軍が信長に対抗できる力を持っていたこと、加えて摂津の主要人物が従ったことから考えて単なる思いつきではなく、準備をした上での行動であったと思われる。

  謎・その2 なぜ一人だけ尼崎城に逃げたか 一人だけ逃げた卑怯者なのか

 これは待てども来ない毛利の援軍を求め、新たな展開をねらうためのの作戦であったのだと考える。そもそも主基地を替えると言うことは情報の入手をより容易にし、柔軟に作戦を遂行できるというメリットがある。四方を囲まれてしまった有岡城を脱出して自らが中心となり、毛利、本願寺、三木との連携を強化して、信長包囲軍をしくこともできたかもしれない。不幸にもほんの十日程で有岡城脱出が知られてしまい、思うように行動ができなかったというのが実際なのではないかと考える。
 さらに深読みして、尼崎城でもいきづまった後は,降伏をすすめにきた重臣をそのまま逃がし、チャンスを待っていたと考えることもできる。自分に何かあったときは逃げた重臣がことを起こすのではないかということである。重臣のいなくなった有岡城に残された完全無抵抗の人たちに、いくら信長でもあのように残忍なことはしないだろうと思っていたのだろう。 
 村重が尼崎城に移って勝機をねらっていた証拠が服部天神社にある。中村左門衛九郎と武田四郎次郎に宛てた書状だが、ここには @敵がきた。A大阪の孫一の衆が駆けつける。B「一刻も早く侍候」一刻も早く衆を集めて支援に駆けつけてほしい と書かれている。差し出したのは9月11日、年代は書かかれていないが9月2日に有岡城を脱出した後と考えられる。孫一は本願寺の支援者である。そのことから考えると宛先の二人は、一向宗に理解のある近辺のリーダーだと思われる。尼崎から近い豊中の服部天神社にこの書状が残っていることからも、信憑性は高いのではないかと思われる。

 もう一つ村重のことを書いた史料を紹介する。昭和三十四年の伊勢湾台風の時に、四百年ぶりに発見されたという前野家文書「武功夜話」である。この中で村重は「村重は実直にして風雅の心ある人」「荒木は実心あり」「実直にして巧偽をつくらず」という人物像ででている。また「摂津守曰く、其元等の諫言至極に候。悉く存知候さりながらそれがし思うに信長諸国を取り、仏意に背き諸法地を焼きはらい、数多の僧、法師を殺し暴悪の所業浅ましき候 狼藉の法敵信長 弥陀の利剣をもっ手誅陸あるべき 我たとえ天涯一人になるも信長行路見定めん」とでている。妻子たちが非業の死を遂げた後も切腹ではなく生きることを選んだ村重の決意がわかるようである。村重は妻子を見捨てて自分だけが生き残った卑怯な人物といわれることも多いが、最後の最後まであきらめずに戦った武将だったのではないか。 

  また、村重の没年についても、諸説ある。一つは、天正七年(1579)説である.。「岩佐家譜」には村重が有岡城を捨て去り尼崎において自害したという一文があるという。これは岩佐又兵衛の没後八十年に書かれたものであり、岩佐又兵衛を浮世絵の祖とする系譜である。岩佐又兵衛は有岡城が落城したときに脱出させられた村重と、たしの子供、すなわち荒木村直だといわれているが、ここでは、武将でなく絵画の道に生きた又兵衛の父親像と脚色されたのか、すっきりと自害したことになっている。

もう一つは天正14年(1586)説である。これは伊丹の荒村寺内にある村重の位牌に、はっきりと『心英道薫禅定門丙戌年天正一四年五月四日』と月日まで書いてある。また、「寛政重衆諸家譜」にも、天正十四年堺において死すとある。さらに、村重は後年を道薫という号で、茶の湯の道に生きたとされている。当然茶会に出席していると考えられるが、その記録をみてみると確かに村重の名前がでている。千利休、今井吉宗、津田宗及という当時の三大茶匠がいるが、彼らの残した茶会記によると、天正十四年以降、道薫あるいは村重の名前がなくなっている

荒木村重、伊丹市に関係のある人物ということでは一番に知られた人であるが、好きという人、嫌いという人、村重程両極端の評価を受けている人物も珍しいのではないだろうか 

 歴史史料は書いた人の立場や見方、それ以上に勝者側によるものか敗者側によるものかで全く違った書き物になる。信長サイドで書かれた「信長公記」毛利サイドの「陰徳太平記」に比べて当事者でない人の書いたものとして「武功夜話」は客観的に書かれていのではないかと期待している。 
 信長に近い存在だった宣教師のルイスフロイスも「フロイス日本史」の中で村重のことを「言動にいくぶん短気で頑固なところがあるが,普段はきわめて穏和で陽気」と書いている。伊丹市民としての贔屓目もあるかもしれないが、村重は卑怯者ではなく情に厚い心優しき武将であったのだと思う。

 高山右近と 中川清秀の無血開城。中山新八郎の裏切りなど、これさえがなかったら歴史は変わっていたかもしれないと思われる瞬間が多くある。村重自身も岳父池田勝正を追放して地位を得たのであるが、戦国の世とはまさにこういうことの積み重ねだったであろうと改めて実感した。

   参考資料・北摂における荒木村重                               瓦田 昇氏著

           ・摂津の守護と有岡城〜荒木村重と摂津上の時代〜       瓦田 昇氏著

           ・謎の武将 荒木村重と伊丹城                         香村 菊雄氏著

           ・村重 第2号 第3号 第4号 創刊号               荒木村重研究会著

           ・摂津村重伝〜信長に謀反した荒木村重の葛藤と矜持

 (文責 田中和美)


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