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 戦国時代の武将。織田信長の下、有岡城主で摂津一国を任せられました。
村重は丹波波多野一族といわれています。初めに池田勝正に仕え、池田氏内紛に乗じて勝正を高野山に追いやりました、更に1574年(天正2)信長の命により伊丹城を攻めて伊丹氏一族を追放しました。村重は伊丹城に入城後、有岡城と改名し、惣構の城を築きました。以後信長の臣下として毛利軍や石山本願寺の戦いに加わりますが、1578年(天正6)信長に反旗を翻し、翌1579年(天正7)有岡城は落城しました。
 村重一族と家臣は尼崎と京都で処刑されますが、村重自身は落城前に毛利氏を頼って尾道に逃れ、剃髪して「道薫」と名乗りました。信長死後、豊臣秀吉の御伽衆として仕えます。茶道にすぐれ、利休十哲の1人といわれました。堺に移り住み52歳で世を去り、堺の南宗寺に葬られたと伝わりますが、1615年(慶長20)大坂夏の陣で焼失後現在の場所に移転した南宗寺にも、南宗寺跡地に建つとされる妙法寺にも村重の墓は見当たりません。伊丹市内の荒村寺に位牌があります。

◆村重ゆかりの場所 
有岡城跡(伊丹1丁目)、きしの砦・土塁跡(猪名野神社 宮ノ前3丁目)、鵯塚砦跡(鵯塚 伊丹7丁目)、上臈塚砦跡及び女郎塚(墨染寺 中央6丁目)、荒村寺(伊丹1丁目)。

「荒木村重」のさらに詳しい解説はこちらから
 


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