トップページ

 
 江戸時代前期の伊丹の俳人。後世の俳人が「東の芭蕉、西の鬼貫」と並び称してその才能を高く評価しました。鬼貫自身も「俳句の貫之」と任じ鬼貫と号しました。鬼貫は酒造家、油屋上島家に生まれ、幼い頃から俳句に親しみ、8歳で「こいこいと いへど蛍が とんでゆく」と詠み世間の人を驚かせました。
 鬼貫は13歳で松江重ョ(後の維舟)の門に入り、池田宗且の也雲軒に学び、20歳頃、也雲軒にて談林派の祖西山宗因に激賞されました。その後より高次の俳諧を求めて大坂へ出て、25歳の春「まことの外に俳諧なし」と開悟しました。自伝によると上島家は奥州藤原氏に連なり、藤原宗邇と名乗りました。武士への志向が強く、三池、大和郡山、越前大野各藩に仕官しています。
 晩年は京、大坂に暮らし78歳で生涯を閉じました。大坂の鳳林寺に葬られ、墨染寺に一子永太郎との親子墓があります。

「上島鬼貫」のさらに詳しい解説はこちらから

◆鬼貫ゆかりの場所 
親子墓(墨染寺、中央6丁目)、鬼貫句碑が市内各所(三井住友銀行伊丹支店横:生家跡、有岡城跡史跡公園内、荒村寺、墨染寺、猪名野神社境内、鵯塚など)にあります。

■鬼貫碑・親子墓(墨染寺)


目次