トップページ



☆鬼貫の時代
  ・井原西鶴 寛永19年(1642)生れ  
  ・松尾芭蕉 正保元年 (1644) 生れ 
  ・近松門左衛門 承応2年 〈1653〉生れ 
  ・上島鬼貫 万冶4年〈1661〉伊丹に生れ、元文三年 (1738) 78歳で没

☆鬼貫の名前(俳号)
 鬼貫、仏兄、点也、自舂庵、羅羅哩、犬居士,馬楽童、槿花翁 武士として藤原宗邇、幼名は竹松、長じて利左衛門宗邇、後に藤九郎さらに半蔵と 改めた

☆鬼貫の自伝
 武士と風流人の2つを生きた  ・仏兄七久留万(享保12年(1727)) 67歳  800余の発句  ・藤原宗邇伝(享保9年(1724))   64歳

☆鬼貫生誕
 酒造業(屋号油屋、酒は”三文字”)の3男(長兄が早世したので2男とも言われる)。生地は三井住友銀行前に記念碑」がある。鬼貫には酒造業で栄えた町の道楽息子の気配がある。鬼貫は奥州・平泉の藤原氏の子孫とみており、晩年、金華(檎花)翁と号した。鬼貫の祖父の直宗が伊丹に移り住み、8人兄弟の長男・宗次が鬼貫の父親になる。鬼貫は3人兄弟の末っ子で鬼貫も3人の子供をもうけている。鬼貫の残した自伝によると
 ・「仏兄七久留万」
  余は寛文元年かのとのうし梅さくらの匂ひもきのうの真垣にこぼれやや卯の花の白髪見するミつかひとつのあした有岡の岡いな野細江のほとり
  伊丹といふ所に胞衣をときぬ
 ・「藤原宗邇伝」
  寛文元年辛丑年4月4日辰上刻生攝州川辺郡伊丹郷(武士としての自伝であり格式高く漢文調で書かれている)

☆鬼貫の生涯
 鬼貫の生涯は次の3期に分けられる。
 ・青年期・・貞享元年(1684) 24歳まで。伊丹の若者と俳諧に熱中
 ・中年期・・貞享2年〜享保2年(1717)まで。25歳〜57歳に当り、伊丹を離れ武士として生きようとした。
 ・晩年期・・享保3年〜亡くなる元文3年(1738)〜78歳まで。享保3年に俳句観を纏めた「独りこと」刊行、続いて「藤原宗邇伝」、「仏兄七久留万」  を刊行

☆鬼貫以前の俳諧
 江戸時代(慶長8年(1603))のはじめにはまず、京都で俳諧が流行した。江戸時代の大文化人であった松永貞徳(1571〜1653)は和歌には古今和歌集や源氏物語などの知識が必要とされたため和歌に入門する前段階として俳諧を勧めた。貞徳の七高弟の内、鬼貫に関係する人として
  松江維舟(1602〜1680) 79歳没
  北村季吟(1624〜1705) 82歳没
 芭蕉、捨女はこの季吟に師事している。 酒造業は伊丹に経済的発展をもたらし華やかな文化が花開く。貞門俳諧の勃興により、俳諧が盛んに
 なった。伊丹で最初に俳諧を始めた人は岡島重紀であった。松永貞徳の門人で「崑山集」(慶安4年(1651)発刊)に19句、他。重紀と同じ頃の
 山村盛定、小西長宅や、少し後の岡田酒粕、鹿島延俊、鹿島宗純、岡島三紀、小西長舎などが出て伊丹の俳諧は活発であった。

☆青年期の鬼貫
 ・鬼貫8歳    仏兄七久留万によると「八つになりけるとし」
      ・こいこいと いえど蛍が とんでゆく
   子供の頃の俳句で有名なものとしては氷上郡柏原町で生れた田捨女 (1633〜1698)6歳の句
     ・雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと   などがある。
 ・鬼貫12歳   「続七車」(1737)に京都の俳諧師松江維舟に長点を受けたとして
     ・一声も 七文字はあり 郭公
  この頃の俳句は、なぞなぞや言葉遊びであり、この句も一種の謎かけである。先の捨女も
     ・いつかいつか いつかと待ちし 今日の月
  と謎かけ言葉遊びで十五夜を歌っている
 ・鬼貫14歳   延宝2年(1674)季吟に句を見てもらい、長点を受けたとして
     ・なんばぞや ひとふた三津の 浜千鳥
  (なんば=難波、三津=3、御津掛けたもの)
  この年、松江維舟にとって2度目の伊丹訪問で池田宗旦、春隅、千之などを連れて伊丹に住みついた。この維舟一行の伊丹来遊が伊丹風俳諧
  の勃興の契機となった。中でも、池田宗旦は伊丹の酒に魅せられ「也雲軒」なる私塾を開き漢文、国文、俳諧などを教え58歳(元禄6年(1693)  で没するまで19年間伊丹で暮らしている。
 ・鬼貫16歳(初入集)   延宝4年、維舟撰「武蔵野」に四句入集する。鬼貫の最初の入集である。現存する下巻に2首
      ・片破や月といふ字の片計
      ・両面の花の衣や( 不明) 芳野 

☆貞門俳諧と談林俳諧と蕉風俳諧
  貞徳を核とした貞門俳諧は寛永(1624)〜寛文 (1672)の江戸時代初めの50年間であり、続いて延宝期(1672)を中心に約10年間が談林俳諧  の時期となる。談林俳諧は大阪にいた西山宗因(1605〜1682)を中心としたのに対し、貞門俳諧は貞徳のいた京都を中心に発達した。またこれ  に続いて蕉風俳諧が芭蕉の居る江戸を拠点に発達する。談林俳諧は短い時期であったが、言葉遊び的要素の他に、謡曲の詞章を取り込むの   が特徴であった。鬼貫も談林俳諧に影響を受け、次の句を詠んでいる。謡曲「放生川」、謡曲「花月」の詞章に依っている。
     ・花見ぬや山々峰々里座頭
     ・木々の雪山々峰々里砂糖

☆也雲軒の事
 宗旦の開いた「也雲軒」はよくはやり。鶯堂、鶯助をはじめ18名の直系の弟子がいた。また、宗旦が伊丹に来る前から維舟に師事していた。     鬼貫、青人、鉄卵等もここを溜まり場として居た。西山宗因が「也雲軒」を訪ねてきたときは立錐の余地も無い集まりになった。と。伊丹の文化の  中心であり、活況を呈していた。


☆俳書の発行
 鬼貫18歳(延宝6年1678)で宗旦の監修のもとに「当流籠抜」を刊行。続いて続々と俳書を出す。也雲軒の宗旦を後楯にした若者達である。
   ・当流籠抜     延宝6(1678)
   ・俳道恵能録 延宝8(1680)
   ・無分別      同(〃)
   ・盆旦       同(〃)
   ・西瓜三ツ     延宝九年(1681)
   ・三人蛸      天和3(1683)
   ・有馬日書     貞享元年(1684)
   ・かように候ものは青人猿風鬼貫にて候
             同(〃)
 これらは鬼貫が熱中していた連句を多く取り入れたものである。江戸時代の俳書は仏書に次いで多かったと言われ、今日の自費出版の句集が 文芸書の中でも群を抜いて多いのと似ている。出版費用も今日の費用で30万円程度はしたと思われ、100部未満の発行部数では可成りの経済負担であったろうが、酒造家の倅でもあり費用的には問題にならなかったと考えられる この時期をもって鬼貫の青年期は次の武士の時代に入っていく。貞享二年(1685)鬼貫25歳の時に大阪に出る。武士の時代は「藤原宗邇伝」に書かれている。ここでは俳諧については、一切ふれられていない。就職難の時代、仕官についてはごたごたが有ったが兎も角も、筑後三池藩(貞享4年〜元禄2年;鬼貫27歳〜29歳)に30人扶持で召し抱えられ、次に大和郡山藩(元禄4年〜元禄8年; 鬼貫31歳〜35歳)に同じく30人扶持で仕える。ちなみに鬼貫が大和郡山藩を辞める前年に芭蕉が大阪で死去している。最後の出仕は越前大野藩(宝永五年(1708)〜享保三年(1718);鬼貫48歳〜58歳)で以後は武士の道を捨て、結局最後は市井の俳人として元文三(1738)78歳でその生涯を終えた。

☆大悟物狂
 三池藩を辞めて大野藩に仕える間に「俳諧大悟物狂」(元禄三(1690))を出した。「大悟物狂」は従来の知的な謎掛け、言葉遊びと言ったものが全く無くなっている。鬼貫30歳は既に若者ではなく、武士としての人生経験が、単なる遊びでは満足できなくなっていたのではないか。この本には四季92、俳諧平外体4、雑4の発句が収められている。代表作の殆どが含まれており最も充実した時代の作品である。この本は初めと終わりに古沢鶯動と上島鉄卵を追悼する句が載せられており冒頭の鶯動を追悼した句は今では鬼貫の代表句になっている。
   ・にょつぽりと秋の空なる不二の山
 鶯動は江戸に下る鬼貫に富士を見てきて感想を聞かせて欲しいと言ったが、鶯動は鬼貫が出立して直ぐに亡くなってしまった。大阪に戻った鬼貫 は、直ちに墓前に赴き約束を果たす。
 「大悟物狂」には、古今景色の変わらぬこそあれ   ・にょっぽりと秋の空なる不二の山
  夕くれにまた   ・馬はゆけど今朝の不二見る秋路哉     
   天高い秋の空に突き刺さる不二、また行けども行けども景色の変わらない広大なる不二の裾野を詠って鶯動に不二の大きさを報告した。
  岡田利兵衛氏も私の好きな句の多くをこの「大悟物狂」から取っている。秋の句では鬼貫が三池藩立花家を辞して伊丹に帰り有岡城跡に立った  時に詠んだ
     有岡の昔を哀れに覚えて   ・古城や茨ぐろなるきりぎりす
   芭蕉の”夏草や兵どもが夢の後には藤原三代の哀れが詠われているとしても、表面的には栄達利害のために戦う武士の姿が強すぎる。一方   鬼貫の句は、古城に立って昔を思うとき、目の前の秋の枯れかかった茨にこれも泣くことすら忘れた秋の終わりのキリギリスがとまている。城が  焼け落ち罪のない女、子供が殺され、その跡に積もった黒い灰、石垣の隙間の茨も焼け残った葉がきっと黒い灰を被っていたに違いない。古城  に立った昔を哀れむ鬼貫の姿がはっきりと見えてくる。此の句は芭蕉を超えていると思います。

☆まことの外に俳諧なし
   貞享二年(1685)25歳の鬼貫は”まことの外に俳諧なし”と悟ったと言う。(後年58歳で出した「独りごと」)。芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音  」と詠んで蕉風を開いたのが1年後の貞享三年であり、鬼貫の研究家は作品の流れからして、「独りごと」を纏めた頃(1718)の考えでは無いか   と見ているようである。

☆芭蕉と鬼貫
 元禄三年(1690)頃は芭蕉は大阪に滞在しており 、鬼貫は意識しないはずが無かったで有ろう。大阪に住む芭蕉の最初の弟子、之道は湖南に住む芭蕉を訪ねる途次鬼貫を訪ねている。鬼貫は色々と情報を得たに違いない。「犬居士」(元禄三年)は鬼貫の福島村日記であり、芭蕉の「幻住庵の記」を意識した物であろう。ただ両人は終生面会は無かった。享保三年(1718)鬼貫58歳で大阪に移り住み、鬼貫の長い中年時代は終わる。

☆晩年期の鬼貫
  享保三年、鬼貫は有賀長伯と言う歌人から「古今和歌集」俳諧歌の伝授を受け、いわゆる古今伝授である。
    ・谷水や石も歌よむ山桜
  と読み「完璧に会得された」言われた。「独りごと」には此の辺りの事が述べられているが、説教じみた内容が散見され58歳の鬼貫 ”老いたり”  の感がある。
  享保一二(1727)仏兄七久留万 67歳
  享保一七(1732)仏兄七久留万拾遺 72歳
  元文二(1737) 続七車
  元文三(1738)八月二日 78歳 没
   ・夢返せ烏の覚ます霧の月
 鬼貫辞世の句である。鬼貫は大阪の鳳林寺に葬られ、間もなく故郷・伊丹の墨染寺にも墓が建つ。墨染寺の石碑は長男と共同墓碑であり、側面 に鬼貫の戒名が刻まれている。
     元文三午年
     仙林即翁居士
     八月二日卒
尚、東淀川の蟹満寺にも墓がある

☆死後の鬼貫
 鬼貫七周忌追悼集「俳諧むなくるま」(1744)の序に
  ” 故翁一派出世之妙句    ・面白さ急には見えぬ薄かな  
 故翁曰、ほのかに聞く芭蕉予が此の句を聞き 新古の目を開きしと云々。翁の終焉の後、蕉門の人の言いしも其のことのごとし。されば鬼貫の新声は芭蕉に先立つ事半年なりと。予、是を古老の人に聞けり。”
 鬼貫の弟子の間では、鬼貫は芭蕉に影響を与えたと信じられていた様である。この様な弟子達の高い評価は明和六年(1769)炭太祇選「鬼貫句集」が刊行された事が一つのきっかけになった。
 炭太祇は「鬼貫句選」の跋文の中で”蕪村は 宝井其角、服部嵐雪、向井去来、山口素堂に上島鬼貫を加えて「五氏」と呼び”鬼貫の再評価を訴えています。
 又「行水の捨て所なし虫の声」の句は大衆に広く知られていて、川柳のネタにもされ「鬼貫は夜中盥を持ち歩き」(夜中は虫の声だらけなので、盥の水をもってうろうろしている)「捨てかねた行水つんぼ不思議がり」(ツンボには虫の声が聞こえないので、何故行水の水を捨てないのか不審がっている)外にも「伊丹の鬼も一七で名が高し」鬼貫は一七文字で有名になった。(鬼も17番茶も出花)をかけたもの。「酒の銘工夫鬼貫頼まれる」(鬼貫は酒造家の出)「鬼貫の銘にちなみの般若湯」(般若湯は酒の事、鬼と般若をかけた物)「鬼貫も三河の新酒には恐れ」(三河の酒は銘を鬼殺と言う)「鬼貫へ夜噺に雅な酒杜氏」(鬼貫と酒の噺で夜が更ける)「路通か実意鬼貫も目に涙」(鬼の目に涙。晩年、餓困自殺せんとし友人、看路通に救われる)等。当時川柳に詠まれるほど、人口に膾炙していたと考える。後世への影響としては、決して無名のまま埋もれた人ではない。井原西鶴も「西鶴名残の友」に大阪の俳人として名前を挙げている。
 近年、岡田利兵衛氏による「鬼貫全集」が編まれ鬼貫の基礎資料が整備された。岡田利兵衛氏 の収集された俳諧資料は、柿衛文庫に収蔵されている。

☆《鬼貫の句》
〈春〉
 ・曙や麦の葉末の春の霜
 ・月なくて昼は霞むや昆陽の池
 ・鳥はまだ口もほどけず初桜
 ・一鍬や折敷にのせしすみれ草
 ・桃の木へ雀吐き出す鬼瓦
 ・谷水や石も歌詠む山桜
 ・咲くからに見るからに花の散るからに
〈夏〉
 ・恋のない身にも嬉しや衣更
 ・空に鳴くや水田の底のほととぎす
 ・夕暮れは鮎の腹見る川瀬かな
 ・飛び鮎の底に雲ゆく流れかな
 ・水無月の汗を離るるほとけかな
 ・冬は又夏がましじゃといいにけり
 ・あの山も今日の暑さの行方かな
〈秋〉
 ・朝も秋ゆうべも秋の暑さかな
 ・秋風の吹き渡りけり人の顔
 ・行水の捨て所なき虫の声
 ・古城や茨くろなるきりぎりす
 ・おもしろさ急には見えぬ薄かな
 ・にょっぽりと秋の空なる不二の山
 ・風もなき秋の彼岸の綿帽子
 ・この秋は膝に子のない月見かな
〈冬〉
 ・古寺に皮むく棕櫚の寒げなり(世の中をすてよすてよと捨てさせてあとからひろう坊主どもかな)
〈雑〉
 ・淀川に姿重たや水車

 (文責 林 亨)


目次