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頼山陽と伊丹とのかかわり

山陽と伊丹を結びつけたのは伊丹酒の魅力でした。文政元年(1818)秋、旅先の豊後竹田の南画家、田能村竹田方で伊丹の酒
男山」を口にした山陽はとても気に入り、さっそく大阪の儒学者、篠崎小竹に相談し文政五年(1822)頃、その案内で「剣菱」
の醸造元 坂上桐蔭を訪れました。首尾よく伊丹酒にコネをつけた山陽は、すっかりそのとりこになりしばしば伊丹に来るように
なり、当時の酒造家たちとも、かなり親交があったと思われます。  
 (出典:原 老柳の生涯の内 頼山陽より)     

伊丹には頼山陽の書がかなり残っています。

@     小西酒造の「酒は富士白雪」という商標看板

A     杜若寺の「大塚鳩斎」の墓碑

B     柿衛文庫の「柿記」

    などですが「柿記」については書かれた経緯がのこっています。

文政十二年(1829)十月二十二日、京住まいの山陽が、広島へ帰る母梅?を送って、篠崎小竹、田能村竹田、高橋草坪、弟子の後藤松陰等と共に箕面に紅葉狩りに出かけました。翌日、その帰りに坂上桐蔭「剣菱」方で送別の酒宴がひらかれました。。その酒宴のデザートとして出されたのが岡田家の台柿でした。そのとろりとした甘さは、あまりにもおいしかったため、頼山陽は岡田家の台柿を愛でる漢詩を書き、同行していた画家の田能村竹田が絵を添えました。

これが柿衞文庫の「柿記」です。柿衞という名前は、この文人墨客が愛した柿を衞る というところからつけられたそうです。
また、そのころの岡田家の当主は19代目の糠人でしたが、この人も台柿にちなんで柿園という別名を持っています。
(出典:新 伊丹史話 より)

台柿・・・ 富有柿のような大きな柿だが渋柿。熟し柿になると渋がきれいに抜けるので、それをすするようにして食べるととても甘くておいしい。中国産のターモンバンという種類だが、種がない。江戸時代に伊丹の地にあったということが非常に珍しい。現在でも秋になると2代目の台柿が柿衛文庫の中庭で実を結ぶ。

山陽はまた「泉川」も大変気に入っていました。そこで醸造もとの大塚鳩斎の墓碑(杜若寺にあります)にも筆をふるっています。

 ★ 頼山陽について

 江戸時代後期の儒学者。諱は襄。字は子成、はじめ子賛。号は山陽・三十六峯外史。通称は久太郎、一時、憐二・改亭・徳太郎の名を用いた。父は春水(芸州藩儒)、母は静子(「梅し」と号し、大坂の儒医飯岡義斎の長女)。安永九年(1780)十二月二十七日に大坂で生まれ、五歳まではほとんど大坂で生長、以後広島に移り、叔母杏坪に就いて修学した。少年時からすでに詩文の才を示したが、一面、情緒の安定を欠き、寛政九年(1797)の江戸遊学以後その傾向が増大し、同十二年九月、脱藩して京に奔った。翌月、連れ戻される途中、播州鵤(いかるが)でまた脱走、十一月、ようやくにして広島の家に帰り、座敷牢に幽閉され、廃嫡となった。しかしこのことがかえって思いのままに読書し、著作に励む機会となり、『日本外史』『新策』の初稿が成った。

 憐二・改亭の名はこの時期に用いたものである。幽閉が完全に解かれたのは文化二年(1805)五月であるが、平穏な日常には甘んずることができず、文化六年十二月、備後の菅茶山の塾に塾頭のような形で転出。しかしここに埋もれることをも不満として、茶山との間にも円満を欠き、翌々年閏二月に上坂、やがて上京し、以後、生涯をここで送った。上京当時、茶山の不興を買うことがはなはだしかったが、上国進出の望みを果たし、『外史』の論賛などの執筆に励んだ。文政元年(1818)三月、春水の三年忌の忌明けを期して九州に遊び、翌年八月に及んだ。この時期の詩は『山陽詩鈔』の巻三・巻四に「西遊稿」として収められ、絢爛・湿潤・雄渾・繊細の多様な作風を示している。豊前国山国川の峡谷に遊び、「耶馬渓図巻并記」を作ったのもこの時である。この前後十年ほど、通称を改めて徳太郎とし、過去を清算して再出発するあかしとしたが、文政五年を期して旧名久太郎に戻った。ただし、改名以前は「久」は訓で「ひさ」、以後は音で「きゅう」と称するとみずから説明している。京に定住してからも諸国の巡遊は頻繁で、それが詩文の内容を豊かにし、また生計の助けになったとされる(文人が詩文書画の作品について、応分の対価を取ることを恥としなくなったのは、この時代から始まるといわれる)。文政十年には松平定信により『外史』を求められて献上、これにより、顕門に対して遠慮のない批判を含むこの私的な歴史書は、天下公行のための免罪符を得たことになった。この時期、『日本政記』の執筆にとりかかるとともに、文政八年までの詩を自選して『山陽詩鈔』八巻を編んだが、分刊直前、天保三年(1832)九月二十三日に五十三歳で没した。京都東山長楽寺後山に葬る。

 これより先、日本の歴史を詠じた『日本楽府』一巻は文政十三年(天保元)に公刊、これが刊行された生前唯一の書となった。『詩鈔』は天保四年刊。この中に「十有三春秋」(発丑歳偶作)、「鞭声粛粛夜河を過る」(題不識庵撃機山図」)、「雲か山か呉か越か」(泊天草洋」)など、人口に膾炙した詩が収められ、漢詩の集としては、茶山の『黄葉夕陽村舎詩』流行のあとを承けて広く読まれた。天保七年には『山陽先生書後題跋』五巻が門人の手で編まれ、著者の読書眼、書画への鑑識眼が窺われ、いまもなお新鮮なものがある。このころ、『日本外史』が刊行、また同十二年に『山陽遺稿』文十巻詩七巻拾遺一巻が刊行、詩の部分は文政九年以後のもので、著者の「唯だ真、故に新なり」との詩文上の主張が、作品によく定着している。「修史偶題」十一首、「夜読清諸人詩、戯賦」一首、「論詩絶句」二十七首なども晩年の円熟を示している。死去当日まで執筆に努めていた『日本政記』はやや遅れて弘化二年(1845)に刊行、史論の多いこの著述は、『外史』と並んで、幕末維新の士風を作興した。しかしいずれにせよ著者のいわゆる「日本にして必要の大典とは芸州の書物と人に呼ばせ申し度念願」(築山盈宛書翰)より出た著述で、倒幕のために著したわけではなかった。これより先、『新策』六巻が天保十三年刊、『通議』三巻もこのころ刊、著者の政策論を知ることが出来るが、この二著は儒家の陳腐を指摘する論者が多い。なお頼山陽居室(幽閉されていた部屋。広島市中区袋町所在、原子爆弾投下により焼失、のち復元)、頼山陽書斎(山紫水明処、京都市上京区東三本木通丸太町上ル南町所在)が国の史跡に指定されている。

・山陽遺稿(さんよういこう)  

・山陽詩鈔(さんようししょう)

・通議

・日本外史

・日本楽府

・日本政記

参考文献:『頼山陽全書』、『詩集日本漢詩』一期十、伊藤吉三『山陽詩鈔新釈』、同『山陽遺稿詩注釈』、竹谷長二郎『頼山陽書画跋評釈』、徳富猪一郎・木崎愛吉・光吉元次郎編『頼山陽書翰集』、「頼家所蔵頼山陽未完書翰附頼春風書翰」(『竹原市史』五所収)(頼惟勤)

国史大辞典14巻より

(文責:中村享子)


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