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 東野村は、江戸時代の寛永6年(1629)から開発が始まった新田中野村の枝郷です。最初は、幕府領でしたが、貞享3年(1686)からは武蔵国忍藩(埼玉県)領、文政6年(1823)から再び幕府領となりました。明治3年(1870)廃藩置県の実施によって兵庫県に編入され、明治22年(1889)に、町村制がしかれ稲野村に属しました。昭和15年(1940)には市制施行により伊丹市域に入りました。東野村の北部にある春日神社は、以前、鎮守の牛頭天王社(素戔嗚神社)と呼ばれ、明治42年(1909)に大野の神社を合併してできたものです。  この地は、昔から苗木の栽培がさかんで、明治には柑橘類の苗木を10万本以上もアメリカへ輸出していました。また、昭和に入ると苗木の燻蒸室や検査所も設置され、昭和25年(1950)には八十二万七千本の苗木が作られるようになりました。植木業は、その後東野の代表的な産業になっています。
 新田中野村では綿作が盛んでした。また、西野地先で武庫川から取水する昆陽井(こやゆ)は市域の南部を潤す重要な用水路でした。しかし、慶応2年(1866)に洪水で大被害を受け、年貢減免や貸付けを嘆願、3か年の倹約を申し合わせたのを始め、武庫川や玉田川の出水にはたびたび悩まされました。昭和7年尼宝バスが現在の地方道尼崎・宝塚線で営業を始めてから宅地開発が進むようになり、最近は高層住宅も増えて昔の面影は失われつつあります。
 
東野小字の研究 ・各小字の研究(1~19)
         (文責:足立繁)
  
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