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 地名の由来は、平安時代に坂上田村麻呂がこのあたりで大鹿を射止めたことにあるといわれています。猿ヶ山″や城ノ中″には昔の城がありました。
 南北朝時代に大覚大僧正の教えにより、村あげて法華宗に改宗し、妙宣寺が村の中心になりました。
手前に昔の道しるべがありますね。西国街道と有馬道がここで交差しています。江戸時代、地図の作製で有名な伊能忠敬もこの道を測量しました。そのころの村は戸数約100軒、人口450人ほどで、瑞ケ池など多くの用水池が広大な田畑を潤していました。
 昭和のはじめから伊丹温泉養鶏村(主膳池跡)や緑ケ丘・桜ケ丘の宅地開発が行われ、昭和38年(1963)からは瑞穂・瑞ケ丘地区の区画整理が実施され、尼ケ池の跡には瑞穂小学校が建てられました。かつての農村地帯は今やすっかり住宅地に変わろうとしています。




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