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■□■クイズ その11■□■
・・・間違い探し問題・・・
   
 
問題の文章で、明らかに事実と間違った箇所が
1カ所あります。それを示してください。
 

第1問

遍照寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、以前は東桑津村にありました。境内には梶曲阜が建立した鬼貫の句碑が建っています。その句碑に対応して、鬼貫の一族だった俳人「子葉」の句碑が建てられています。

第2問

臂岡天満宮の祭神、菅原道真公は平安時代、政治家として腕を振るい、右大臣にまで登りつめましたが、陰謀により突然九州大宰府に左遷されました。その大宰府に向かう途中、当景勝地に立ち寄り臂を枕に休まれたので、それ以来この丘を臂岡と呼ぶようになったと伝えられています。道真公が旅立ちにあたって、村の男衆がお粥を作って差し出し、無事を祈ったりしたことから、現在でもお祭りの際にお粥を供えています。

第3問


浄土宗大蓮寺は寺伝によると、天正年(1587)の創建されたとあります。本尊は阿弥陀如来立像。現在の本堂は建築手法等から、17世紀中・後期に建てられたと見られ、伊丹市内の浄土宗の寺院の本堂では一番古い遺構のようです。平成元年に荒木村重の供養塔が建てられました。



第4問


社伝によれば猪名野神社の祭神は猪名野坐大神で、素盞嗚尊が祀られています。延喜4年(904)に猪名寺(尼崎)の元宮から遷座したとあります。江戸時代の領主、近衛家の庇護もあり、郷町の氏神として崇拝されてきました。境内には国史跡である「きしの砦跡」、鬼貫の句碑、近衛家が寄進した巨大な灯籠があります。また、樹齢200年以上と推定される「ムクロジ」は市の天然記念物に指定されています。


第5問

南北朝時代の大僧正大覚は文和3年(1354)西国巡化の途中、伊丹大鹿に立ち寄りました。当地は大旱魃で雨乞いをしていましたが霊験なく、大覚が雨乞いの祈願をした処、奇跡の降雨となりました。その感謝の証として大鹿村挙げて改宗し、妙宣寺は大覚を開祖として真言宗の寺院となりました。更に延文3年(1358)の夏、深刻な旱魃が畿内を襲い、大覚は天皇の勅により雨乞いの祈願を行い、たちまち雨が降る霊験が起きました。

第6問

西国街道には、大永2年(1522)まで昆陽院という寺があって、天皇行幸の際の宿泊所であったと伝えられていました。最初、この「昆陽の本陣」は、佐藤家でしたが、幕末頃には川端家が勤めていました。有名な測量家の間宮林蔵は、文化5年(1808)神崎―伊丹―有馬道を測量した後、この本陣に泊まった記録が残っています。

第7問

現在の萬徳寺は有岡城落城以前にすでに“正覚山真光寺”として存在し、親鸞末寺の念仏道場として了秀が住職を勤めていました。了秀は伊丹忠親とは茶道友達として深い親交が有り、有岡城の落城とともに討ち死にし、真光寺も廃寺となりました。
萬徳寺の開基は有岡城消失の翌年、即ち天正8年(1580)になります。本尊は阿弥陀如来立像(伝恵信僧都作)を中心に、右に親鸞聖人、左に蓮如上人がまた右側面には聖徳太子、左側面には七高僧の画副がまつられています。

第8問


奈良時代に僧行基の作った昆陽池は、上池と下池の二つからなっていました。その内、下池は慶長13年に埋め立てられましたが、「池尻」の地名は、この下池の尻にあることからつけられたのでしょう。池尻村は、江戸時代は阿波徳島藩の領地でしたが、のちに幕府の直轄領となりました。明治維新後、版籍奉還が行われ、兵庫県川辺郡池尻村となり、その後市制町村制が施行され、旧稲野村に編入されました。


第9問

幕末の国学者で、歌人の加納諸平は中村良臣の長子で「柿園」と号しました。18歳で和歌山の藩医加納伊竹に引き取られ養子となりました。父から和歌を学び、本居太平に国学を学びました。伴林光平は諸平の門人です。

第10問


昆陽池から北東約600mのところに位置する瑞ヶ池は、市民の貴重な水がめですが、埋め立てにより狭められました。現在は周囲およそ2km、広さ19.3haです。池の周囲は瑞ヶ池公園として整備され、約600本の桜をはじめ南京桃、躑躅(つつじ)など沢山の樹木や花が植えられています。アメリカのハドソン河畔の桜は日本から贈られたものですが、その台木は伊丹で育てられたものです。その子孫の桜がアメリカから贈られて公園で育っています。

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