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ホーケントの廻国供養塔と新建石橋碑

 猪名川の神津大橋西詰から7~80m上流の堤防内側に、三平井組記念碑がある。 三平井は16世紀、中世末頃の創設と言われている。その名称は三平という人物に因んだものである。現在、井組は尼崎市の御園、上坂部、森、南清水、上食満の5村落で構成されている。
 もともと三平井は駄六川から取水していたが河川改修により樋門を撤去、農地の減少で灌漑用水の需要が減ったこともあり、昭和52年にポンプ揚水に切替えた。これを記念するために設置した碑である。 現在も河川の水質保持のため、三平川に汲み上げた地下水を放流している。
 三平伝説
 民衆の窮乏を救う義民の話が各地で伝承されているが、三平井には三平伝説が語り継がれている。
……天正3年(1575)の頃、旱魃(かんばつ)で村の住民は苦しんだ。伊丹の取水口に新たに伏樋を設置して水を引くことを時の領主に願い出たが許されなかった。そこで三平という浪人が村を救うために百姓を手伝わせて、一夜のうちに底を抜いた四斗樽をつなぎ伏せて取水した。三平は許可なく堤防を破った罪を一身に引受け自害した……。
  昭和7年(1932)頃に三平を顕彰する記念塔が建てられ(尼崎市御園)、毎年三平の命日に供養の法要が営まれている。 
 水論争
 三平井組は三平井の下流で取水する大(おお)井組とは再三水論争を起こしている。
 天正20年(1592)には双方の農民が藻川の河原で槍・長刀を用いた乱闘となり、6人の死者を出す事態になった。双方の庄屋7人がこの責任を問われ、京都四条河原で斬罪に処せられた。
  2つの井組の取水場所である猪名川と藻川の分岐地点付近では水流が洪水のたびに変化し、先例となる分水の取決めが難しかった。このため江戸期になっても渇水、流路の変化の度に論争が繰り返された。      

昭和7年発行地図 1/25,000 踏切の表記
    (松田 記)
 
場所:神津大橋西詰近く

 
 
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