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 荒牧村は鴻池村・荻野村とともに元和3年(1617)から明治の廃藩置県に至るまで、尼崎藩の領地であった。3村は境界を接する周囲の村々とは領主が異なり、尼崎藩領の3村は飛地を形成していた。 天日(てんにち)神社境内には、かつての藩領域を示す2基の領界石が保存されている。それぞれ「従是東尼崎領」、「従是西南尼崎領」と刻まれている。
 天保9年(1838)に作成された「天保巡見使控」に摂津の尼崎領内を中心に詳細な記述があり、領界石についても記録されている。 それによると字「堂ヶ元」、「あゼ道」に領杭があったと記されている。
 これらの字は荒牧村の小字名で、それぞれ村の北東端にある小字「堂ヶ本」」(現荒牧7丁目付近)、および村の北西端にある小字「畦道」(現荒牧2丁目)である。堂ヶ本には「従是西南尼崎領」、および畦道には「従是東尼崎領」の領界石が、いずれも京伏見街道沿いに建てられていた。
                (尼崎市『地域史研究』 36巻2号)

 領界石は明治維新の廃藩置県により不要物として撤去され、散逸したものが多い。
  史料によると荒牧村以外には寺本村、山田村、南野村に各1基、鴻池村には2基の尼崎藩界石が設置されていた。このうち鴻池村の1基については市立博物館に保存されている。
  なお荒牧・鴻池・荻野の3村は明治22年に市町村制実施に伴って周囲他村とともに川辺郡長尾村に統合された。その後長尾村は昭和30年3月に宝塚市に併合したが、旧3村は同年4月に宝塚市から分離して伊丹市に編入、現在に至っている。      
    (松田 記)
 
場所:天日神社境内

 
 
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