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天神川の下をトンネルが横断している。
 昭和19年7月に大阪陸軍獣医資材支廠への貨物専用の引き込み線として、国鉄中山駅から荒牧を経て野里に行く建設が始まった。終戦の年に完成したが、残念ながら列車は一度も通ることがなかった。線路は昭和20年10月には撤去された。
 しかし、線路跡も、トンネルも、今は道路として残っている。陸軍施設跡としては北野1丁目の長尾住宅の角に残るコンクリートの門柱だけである。 終戦直後、中山駅の引き込み線に天蓋のない裸の貨車が何両か放置されていた。
 上級生に誘われて貨車に乗りに行った。連結器の太いピンは簡単に抜けた。先頭の貨車を皆で押して少し動き出すと一斉に貨車に飛び乗る。中山駅から荒牧までは緩い下り坂に成っている。ゆっくり動き出した貨車は次第に速度を上げていく。上級生が貨車の梃子ブレーキに乗っかって速度を調節した。しかし荒牧のトンネル近くまで来ると、梃子ブレーキではスピードを落とす事が出来なかった。“皆、飛び降りよ!”との掛け声で線路脇に飛び降りた。貨車はトンネルを過ぎたところで、止まっている何両かの貨車に追突した。ガシャーンと言う大音響と共に先に止まっていた貨車を動かして止まった。
 恐ろしくもあり痛快でもあった。

 このトンネルには不思議なことがあった。
 トンネルには側溝があり、冬になると北側の水面からは微かに水蒸気が立ち昇っていたが、南の側溝は薄氷が張っていた。
 何故トンネルの両側でこの様に温度差が出るのだろうかと何時も疑問に思っていた。
ひょっとすると、トンネルの西側はカーブになっているため、風の通り道で温度差が出きたのか。
 或いは、中山駅近くで温泉が湧いて「宝の湯」が出来たが、案外関係あるのかも知れない。
 今も疑問が残ったままである。

 (林亨 記)





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