トップページ

歴史会講座 『太平洋戦争と勃発へ至る道』に参加して

8月21日に行われた歴史会の講座に参加いたしました。
テーマは『太平洋戦争と勃発へ至る道』と題して、金曜班の田中実さんが講師をされていました。
副題に<歴史から学ぶ (自国ファースト→自国オンリー→軍事オンリー→開戦→国民犠牲→敗戦)の現代への警鐘)
参加した感想を書かせていただきました。
                                         (木曜班 金川)

 


実像に迫るシリーズ『荒木村重』の終わりに、著書の天野忠幸氏は村重の功績を振り返って、このように結ばれています。
<戦争においてもっとも重要なことは、華々しい合戦シーンではなく、食料の配給をはじめとする兵站である。しかし、第二次世界大戦における日本兵の六割以上が戦死ではなく、餓死や戦病死であったという。精神論に傾きやすく、補給や後方支援などの兵站を軽視する日本人の体質により、村重戦略は長く理解されてこなかったのではないか。
村重への着目は、先入観にとらわれたり、軍事以外でも兵站を軽んじる現代日本人への戒めであり、自らも気を付けたい。>

この<第二次世界大戦における日本兵の六割以上が戦死ではなく、餓死や戦病死であった>というのはおそらく終戦の前年に行われたインパール作戦を指しているのでしょう。
インパール作戦は約3万人の兵士が亡くなり、その半分以上は対
英軍との戦闘ではなく、病気や餓死で亡くなりました。作戦を計画した牟田口廉也中将は兵站を軽視し<大和魂>という精神論を振りかざして作戦を強行し、多くの兵士を犠牲にしました。
戦後その責任は裁かれること無く、自身も敗戦の責任を感じて人前で多くを語りませんでした。
ところが戦後16年余り生き、その晩年には「作戦は部下の無能さのせいで失敗した」と主張していたというから、南方の密林で飢えと病気で亡くなった兵士たちの御霊は浮かばれないでしょう。

終戦の日を前後して、NHKスペシャルで戦争ドキュメントを数本放送していました。
「731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜」
「樺太地上戦〜終戦後7日間の悲劇〜」
「戦慄の記録〜インパール〜」
「本土空襲 全記録」
どれも生々しい戦争の実態を伝えていました。


こういう番組を見ていると、戦後生まれの私はいつもこんな疑問が浮かんできます。

日本はなぜ、この理不尽な戦争に突入してしまったのか?
戦争に突入する転機はいつだったのか?
一番の責任者は誰なのか?

この戦争の首謀者は東条英機ひとりだけではありません。
その点では、ヒトラーという圧倒的な指導者が国民を導いていたドイツとは異なります。

<船頭多くして、船山に登る>
国民を戦争に引きずり込んだ当時の政治状況をこの故事が表しています。
政治家、軍人、皇族、そして新聞・ラジオのマスコミ…。
戦争を避ける分岐点が幾度かあったにも関わらず、日本という船は多くの船頭たちに翻弄され、戦争へ突入し沈没するのです。

今回の歴史会の定例会では、水曜班の田中実さんが講演を担当されていました。
表題は「太平洋戦争と勃発へ至る道」

私とって、興味深い内容でした。

レジメには明治維新から太平洋戦争終戦時までの様々な事案を簡潔に記されていて、無学な私にも理解しやすい内容になっていました。
私としては昭和史に関する本を多少読んでいると思うのですが、時系列に順序立てて読んだ訳ではなく、昭和に起きた事件や登場する人物に関する書物をバラバラに読んでいました。
だから、昭和という時代の全体像を俯瞰して見ることが出来なかったように思います。昭和に入るもっと以前から、悲惨な結末に陥る原因があったのです。

講座では 明治維新後の富国強兵から始まり、日清戦争と日露戦争を経て徐々に軍部が台頭し拡張していく様子を示されていました。
第一次世界大戦を経て空前の好景気となり、アメリカを仮想敵国として軍備拡張が進んでいきます。
そして、世界大恐慌により協調外交が行き詰まり、五・一五事件や二・二六事件を経て、軍部は抑えられないほど勢力を拡大していきます。
そして、短期決戦なら勝てるのではないかとの楽観的な憶測のもとで、日本とは比べ物にならないほどの大国アメリカとの戦争に踏み切るのです。
最近、ミサイルを撃ち続けるどこかの国を想像してしまいます。


講座を通じて、軍部の統帥権が日本の進路に大きな影響を与えたと述べられています。

レジメの<むすびに代えて>で、こんな風に書かれています。
<帝国憲法では天皇に統治(主)権、立法権、軍の統帥権があり、統帥権により天皇と軍部が直接結びつき、結果的に軍部が天皇の大権を左右する状況になってしまう。元来、天皇は超立憲君主的な立場で神聖で行動しない位置づけであり、自ら判断を下すことなく軍部の意見を承認した。内閣総理大臣は他の国務大臣と同格で、単に天皇を輔弼する立場であった。このような政治システムでは結局軍部が統帥権を盾に勢いを増し、アメリカとの交戦を主導するに至った。>


またその他、「伊丹市内の太平洋戦争中の空襲被害状況」の資料も配布されました。
伊丹における最初の空襲は昭和20年3月19日でした。
以後、上空に敵の機影を見ない日はないほど、来襲は日常のこととなりました。
当時空襲があった日に書かれた日記が紹介され、平和な現在では想像出来ないような生々しい体験が綴られていました。

会の終わりに感想を話し合う時間があり、参加者はそれぞれの感想を述べられました。
戦中派であろうが戦後派であろうが、世界情勢が軍備増強に動いている今だからこそ、国民に大きな犠牲を強いた歴史を振り返る必要があるように感じました。

NHKスペシャル「樺太地上戦〜終戦後7日間の悲劇〜」の中で、歴史作家の保阪正康が語っていました。

<一番責任感というものを重く感じるのは一番下の人なんです。
国民、庶民、あるいは戦闘隊に組み込まれた人たちです。
この人たちが最も太平洋戦争で犠牲が多い。
ところが命令を出した人、命令を出したのを受けてそれをさらに具体的に行動を指示した人、この辺の人たちの責任が恐るべきほど日本は欠けている。
それはある意味で、私たちは悲しくなる。
こんなことまでして戦わされた国民義勇兵、本土決戦というものは何なのか、
そういった資料を基に、この責任はどこにあるのか。
史実として何を語り継ぐべきかというのはやらなければいけない。本当に。>

戦争経験者の体験や意見をもっと聞きたいと感じた講座でした。

 
資料(太平洋戦争と勃発への道 目次)      資料(伊丹市内の太平洋戦争中の空襲被害状況)
      
 
 目次