楽しい思い出はいつまでも脳裏の片隅に残っているものです。
特に、子どもの頃のことは。
1950年代、近所の空き地に、紙芝居がやってきました。
紙芝居の舞台を自転車の荷台に乗せて、おじさんは拍子木を鳴らします。
カチンカチンと乾いた音が聞こえると、子どもたちは急いで空き地まで走ったものです。
料金は忘れましたが、10円程度を払うと、二本の箸に水飴を付けたものをくれました。
水飴はこね回すと、白色に変化していきます。
おじさんが紙芝居の始まりを告げるまで、子どもたちは水飴をこね回していました。
紙芝居の人気者は「黄金バット」でした。
活弁のような名調子を聞きながら、物語に引き込まれていました。
そして、いつも面白い場面で終わってしまうのです。
「続きはまた、次の機会に」と言い、おじさんは帰っていきます。
だから、子どもたちは紙芝居のおじさんが来るのが待ち遠しかったのです。
1953年にテレビ放送が始まりましたが、余程裕福な家庭でないとテレビを持てなかった時代の話です。
紙芝居は子どもたちの貴重な娯楽でした。
現代の子供たちの家には鮮明なテレビがあり、パソコンのゲームがあります。
コンピューターグラフィックを駆使した映像を見慣れている、いまどきの子どもたちは、紙芝居や紙人形劇にどんな反応を示すのでしょうか?
公演は午前11時からの授業として行われました。
伊丹の小学校では「心の匠」というテーマで、子どもたちに伊丹の歴史や文化を教えています。
どんぐり座の活動が<紙芝居を通じて伊丹の歴史や文化を伝えていく>ことですから、ちょうどテーマにマッチしています。
開演の1時間前には、舞台や音響などのセッティングが終わり、もうすでに準備が整っていました。
開演まで時間があるので、メンバーたちが練習を初めました。
どんぐり座は月に一回例会をして、練習や打ち合わせをしています。
メンバーは現在11名。
若い人の参加が減り、現在の社会と同様、高齢化しています。
少人数になりましたが、メンバーたちは紙芝居やペープサートに魅せられて、活動を続けています。
11時のチャイムが鳴り、見学の生徒たちがやってきました。
教室は小学2年生の生徒たちで埋まりました。
リーダーの挨拶で始まります。
今日の演目は紙芝居2題、ペープサートが1題です。
最初の紙芝居は、「赤くなったこうのとり」。
有岡城落城とともに伊丹からコウノトリがいなくなったお話です。
2題目は「昆陽寺の盗まれた釣り鐘」
由緒ある昆陽寺の釣り鐘が盗まれたお話です。
そして、最後のペープサートは、「伊丹に猿が居なくなった話」。
農作物を荒らす猿たちが神様に叱られて、箕面の山へ追われるお話です。
特殊撮影(SFX)やコンピューターグラフィックス(CG)を見慣れている子どもたちがどんな反応を示すかと思っていましたが、みんな食い入るように紙芝居を見つめています。
やはり、題材が身近な伊丹の昆陽寺や有岡城を扱っているからでしょう。
また、手作り感のある舞台づくりや絵が、日頃目にしている完成された映像とはひと味違った雰囲気を醸し出し、それが子どもたちには新鮮に映ったのでしょう。
驚いたことに、「夕焼け小焼け」のハーモニカ伴奏の時、小さな声が集まって合唱となっていました。
ペープサートでの猿の紙人形にはみんなが大いに盛り上がり、教室は笑い声に包まれていました。
子どもが笑える社会が一番健全だと、ふと思った次第です。
私自身、この教室での光景に既視感を覚えました。
そう、もう半世紀以上前、私も教室で紙芝居を見た記憶があるのです。
物語に確かな記憶はありませんが、雪の積もった公園で子どもたちが雪だるまを作る話だったように思います。
雪だるまを作っている光景が今でも心の中に残っていて、時折夢の中に現れたりするのです。
今日のどんぐり座の公演を見た子どもたちが大人になった時に、物語の一場面がひょっこり既視感として現れるのなら、それはとても楽しいことです。
校内に授業終了のチャイムが鳴り響き、どんぐり座の公演も終了しました。
演じていたメンバーたちは、「黄金バット」や「月光仮面」を楽しんでいた年代の人たちです。
水飴をこね回しながら、おじさんが演じる紙芝居に目を輝かせていたことでしょう。
半世紀以上の時を経て、伊丹の歴史と文化の伝承という思いを込めながら、紙芝居やペープサートは続けられています。
そんな素朴な光景がいつまでも続くことを祈るばかりです。
どんぐり座のみなさん、お疲れさまでした。
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