高師直が斬殺された場所を探して | |||
「師直塚」は私の家から200mほど離れた、スーパーマーケットのイズミヤの隣にあります。少し傾いている石はどことなくもの悲しい雰囲気を醸しています。毎日その前を多くの車が行き交い、立ち止まる人はほとんどいません。 |
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(木曜班 金川) |
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先月(平成30年5月)、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で、「観応の擾乱」が取り上げられていました。 また、1796年(寛政8年)〜1798年(寛政10年)に刊行された「摂津名所図会」にも、高師直塚のことを「山田村にあり。高師直はじめ其一黨(たう)、こゝにて上杉・畠山の軍卒に討れぬ。後人憐れんでこゝに葬る」との記述があります。 江戸時代中期、山田村の田んぼの中に高師直の墳墓があったことは事実のようです。 ところが、明治末期になって、田んぼの所有者が耕作の妨げになると取り壊してしまいました。 大正4年になって、墓を取り壊した事による後難を恐れた、山田村青年会が発起して、現在の供養塔(師直塚)を建てました。 現在の石碑の台座には、発起人として、山田村村長、青年会会長、世話人の名前が刻印されています。 昭和37年に、その塚が建っている土地を建設会社の社長が買い取り、自らが経営する工場の正門植え込みにその石碑を移したそうです。 するとその後、その社長の近辺に様々な災難が連続して起り、社長は「師直塚」のタタリだと石碑を元の位置に戻しました。 (この辺りの記述はインタネットからの引用なので、事実かどうかは判りませんが) そして、昭和42年、国道171号線拡幅工事が始まりました。 その道路拡幅用地に師直塚があったため、工事事務所はその対応に苦慮したそうです。 結局、昭和44年、昆陽寺の住職を招いて移設の法要を執り行い、「師直塚」は現在の建設省用地に収まりました。 こうして、田んぼにあった墳墓から供養塔が建てられ、移設を繰り返して、現在の場所に落ち着いた訳です。 山田村の伝承から、高師直が斬殺された場所は山田村のあたりにあったと考えるのが妥当なのでしょう。 ところが、亀田俊和氏の著書「観応の擾乱」には、<師直と息子の師泰他高氏の一行が摂津国武庫川辺鷲林寺の前に来たとき、500騎ばかりで待ち伏せていた足利直義派の武将に斬殺された>という記述があります。 これは『園太暦』(えんたいりゃく)に、<於武庫川邊鷲林寺前>という記述が登場することからの引用です。 (「園太歴」参照) 『園太暦』とは洞院公賢という南北朝時代のお公家さんが、その頃の朝廷の動向を詳細に書きのこしている日記です。 それでは、その「武庫川邊鷲林寺(じゅうりんじ)」はどこにあるのでしょう? 現在の「師直塚」の近くにあるのなら、高師直が斬首された場所はほぼこの辺りだろうとなるのですが…。 なんと、鷲林寺は西宮の甲山のふもとにあるのです。 もしや、昔武庫川辺にあった寺が、移転してしまったのか。 早速原付バイクに乗って、その鷲林寺へ行ってみました。 阪急甲陽線を横切り、山の手のほうへ進んでいきました。 「鷲林寺前」というバス停を左折して、しばらく行くと寺の石柱が見えてきます。 山林に囲まれた、閑静なお寺です。 武庫川辺りからだと、約30分弱のところです。 寺関係の人が不在で、寺務所にアルバイト風の男性しかいませんでした。 「住職は忙しいので、ほとんど寺には居られません」と言われ、寺の沿革等が書かれた小冊子をいただきました。 この寺は天長10年(833)淳和天皇の勅願で弘法大師により開創されました。 弘法大師は観音霊場を建立しようと、土地を求めて広田神社で夜を通して拝んでいました。 すると、化人が現れて、「ここを去って西山に入るべし、汝の所期を満たすあろう」と告げられました。 大師が西山に向かうと、途中で大鷲が現れて、入山を妨げたそうです。 大師が大鷲を桜の霊木に封じ込めると、再び化人が現れ、「汝の求める霊域はこの処なり。汝しばらく礼拝せよ」と告げられました。 そこで、大師が礼拝すると不思議に観音が現れたので、大鷲を封じ込めた桜の霊木にて十一面観音を刻み、鷲林寺と名付けたそうです。 寺の縁起によると、鷲林寺の所在地は大昔から広田神社より西の山にあったとのこと。 『園太暦』には確かに「武庫川邊鷲林寺」と書かれています。 ただ、「園太歴」が書かれた頃は今から660年も前のことです。 大昔のことですから、辺りは建物なんて何も無く荒野が広がっているわけですから、甲山ふもとに立っている寺が武庫川辺と呼ばれていたのかもしれません。 (ちょっと、不自然な気もしますが) 高師直と師泰の一行が斬殺された観応二年二月二十六の状況を振り返りましょう。 歴史上「観応の擾乱」と云われるのは、足利尊氏と執事である高師直の軍と、尊氏の弟直義が対立した内乱です。 一時直義が劣勢になり、出家して和睦します。 しかし、直義は南朝側と手を結んで、逆に尊氏と師直の連合軍を打ち破ります。 観応二年二月一十七日、摂津国打出浜(芦屋市)で決戦が行われ、尊氏・師直軍は直義軍に大敗を喫します。 そこで、足利尊氏は師直と師泰の兄弟を出家されることを条件に、直義と講和を結びます。 二月二十日、講和がかなった尊氏は京都へ向けて出発し、その後ろを出家を覚悟した高師直の一行が距離を開けて付いて行きます。 「太平記」によると、尊氏と師直との距離は五十町(5450m)になったそうです。 そして、師直一行が<武庫川を打渡りて、小堤の上を過ぎける時>、待ち伏せていた上杉修理亮の軍勢に斬殺されるのです。 上杉修理亮はかつて、師直軍に殺された上杉重能の養子上杉能憲(近年の研究では実子の上杉重季だとか)です。 上杉は親の敵を討ったわけです。 「太平記」の記述が正確なら、やはり武庫川を渡った山田村の辺りになるのでしょう。 「『園太暦』が「昆陽寺前」を「鷲林寺前」と書き間違ったではないか」と書かれているホームページもありました。 確かに、それだとかなりつじつまが合いそうですが。 殺された場所が鷲林寺の前だとすれば、こんな想像も出来そうです。 出家を強いられた師直・師泰は尊氏一行の後を付いて京へ向かっていますが、尊氏との距離は5キロメートル以上も離れてしまいます。 どうせ、京へたどり着いても、命の保証はありません。 生命の危険を感じて、師直・師泰兄弟は道を外れて、有馬方面へ逃げようとし、鷲林寺辺りで直義一派に襲われたのかも。 (これは私の勝手な想像ですが) とにかく、600年以上も昔の話ですから、確かなことは解りません。 補足ですが、この鷲林寺は天正7年有岡城の戦いで、織田信長軍によってすべての堂塔が焼かれてしまいました。 有岡城の戦いでは、毛利軍は兵糧の補給を尼崎城に陸揚げしてから有岡城に運んでいました。 しかし、 次第に織田軍の砦が築かれると、尼崎ルートの補給路は使えなくなりました。 そこで、花隈城に一旦陸揚げした物資を神呪寺城、鷲林寺城や宝塚の洞窟に一旦保管し、その後夜間に昆陽野を横切り有岡城に運ぶルートを使っていたそうです。 そのため、神呪寺城や鷲林寺城は信長軍の標的になり、焼失させられてしまったのでしょう。 【騎馬武者像について】 このホームページに、「伊丹ゆかりの歴史上人物」というコンテンツがあります。 「高師直」のページを作っている時、師直の顔写真を探していました。 インターネットで検索すると、次の写真が多くヒットしました。 私が義務教育で習っていた昭和の教科書では確か「足利尊氏」として紹介されていたと思います。 インターネット(ウィキペディア)には、「京都国立博物館所蔵の『騎馬武者像』は伝足利尊氏として歴史教科書などでも知られていたが、近年はこれに懐疑的な見方が出てきており、画像の人物は師直(もしくは子の高師詮)や従兄弟の高師冬であるという説もある」との記述がありました。 さて、高師直の写真として使用して良いものか、逡巡しました。 そんな時、「高師直」という本の表紙に、この写真が使われているのを見つけました。 著者は「観応の擾乱」を書いた亀田俊和氏でした。 騎馬武者像のことが著書「高師直」のP216に書いてありました。 かつて、この像は足利尊氏を描いたものとするのが定説でした。 戦後になって、この像を高師直とする説が発表されたそうです。 その論拠を要訳すると、次のとおりです。 <騎馬武者像の上に足利義詮(尊氏の嫡男・室町幕府二代将軍)の花押(署名代わりの記号)が据えられている。もし、これが父(尊氏)の肖像であるなら、その上に子(義詮)が花押を記していることになる。それは非礼を犯すことなる。また、太刀の柄(つか)と馬具の四方手(しおで)に花輪違の紋が描かれている。これは高氏の家紋である。 以上の論拠から、足利氏のために犠牲になって全滅した高一族の怨念を鎮魂するために、晩年の義詮がこの絵を制作させたと、学者は推定した。また他の学者は、師直の十七回忌の法要に際して貴族がこの絵を制作し、師直の武勲を顕彰する意味で義詮が家紋を据えたとした。> とはいえ、この絵を師直の子師詮とする説を提唱したり、師直説を批判する学者もいたりして、騎馬武者像が誰であるかは不明のようです。 以上 |
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