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 私は伊丹生まれの伊丹育ちです。そのため、猪名野や昆陽という地名は以前から慣れ親しんできました。学生時代にこの地名が古歌の歌枕であったと言うことを知り、驚くと同時に「歌枕の地に住んでいるのだ!」と思うととてもうれしかった記憶があります。千年の昔に詠みこまれたゆかしい地名が、そのまま現代も市バスの標示などに見られるというのは喜ばしい限りです。古い地名は祖先と我々を結び次世代へ引き継がれていくものだと思います。

伊丹市内を散策すると、道端で和歌などを刻んだ碑に出合います。私の手元にある冊子「文学碑をたずねて」(注1【図1をみてみると、「伊丹市に残された詩歌や文章を石に刻み、文学碑としてゆかりの地に60基を設置した(その案内書)」とあります。こうした昔の歌を各地に設置するという、後世への取り組みは素敵な事業だと感服します。

その60基の中に「ありまやま」(有間山・有馬山)という言葉が出てくる作品が4首あります。すべて平安時代以前の作ですが、その4首の内、猪名野(注2の登場が3首、昆陽池(注3の登場が1首となっているのは「伊丹ゆかり」の所以でしょう。「山の無い伊丹」ゆかりの歌ですから、「猪名野」「昆陽」から見た有馬山だと想像されます。

有馬山とはどの山をいうのでしょう。

志長鳥 猪名野を来れば 有間山 夕霧立ちぬ 宿はなくして (緑ヶ丘公園 内)

有間山 裾野之原爾 風吹者 玉藻波依 昆陽能池水(たんたん小道 内)

しなが鳥 猪名野をゆけば 有馬山 夕霧立ちぬ 明けぬこの夜は(昆陽池公園 内)

ありま山 ゐなのささ原 風吹けば いでそよひとを わすれやはする(昆陽池公園 内)

このうち、志長鳥(しなが鳥)と出てくる歌は、万葉集や新古今和歌集におさめられているのですが、他にも『万葉集』には有馬山が詠まれた長歌(注4もあります。「有馬山」をモチーフにした平安時代の歌(注5伊丹から有馬方面の山々を見た風景を詠んだものが多いようです。有馬山を「猪名野」「昆陽池」以外で詠んだ歌(注6もありますが、その中には伊丹から有馬方面の山々を見たことをイメージさせるものもあります。また、有馬温泉の湯に関するものなどがありますが、それは平安時代以降の作品が多いようです。

ここで注目すべきは、平安時代から「猪名野」「昆陽」は広く知られており、猪名野と昆陽池・昆陽野は歌枕として有名であったということです。この手法は万葉集以来の伝統的なものであり、もしかしたら、万葉集や新古今和歌集の歌が平安時代の歌に影響を与えたのかもしれません。「猪名の笹原 」「昆陽池・昆陽野」は現在の伊丹市に昔広がっていた原野で、その背景の山として有馬山が詠み込まれていたと思われます。「猪名の笹原」とは伊丹市のホームページによりますと、「かつて伊丹市周辺に広がっていたと伝えられる草原です。」とあります。また、「昆陽野」は地域の掲示板(注7【図2では「東は伊丹坂、西は武庫川、北は長尾山周辺、南は笠池富松に及ぶ広大な地であった」と書かれています。足利健亮氏の「日本古代地理研究」【図3では、大阪から有馬への直線古道があったとし、その古道(有馬道)と西国街道との交点が猪名野や昆陽野という重要な地点であったことがわかります。そして「伊丹に遷都」(注8の話が2度あった。ということを耳にしますが、実際は「伊丹」ではなく、「爲名野(為奈野)」であり「昆陽野」です。遷都に選ばれるような大きな地名であった爲名野」「昆陽野」がなぜ「伊丹」に変わったのか、その経緯について調べてみたいところですが、次回に譲ります。

 話を表題に戻しますが、有馬山とはどこの山を指しているのでしょうか?

有馬の山と言えば有馬富士の角山が思いつきますが、この「ありま」は三田市での逸話、孝徳天皇の子「有間皇子」関連のようで、今回の平安時代の歌とは関係が無さそうです。ここでの「ありま」とは、湯山と呼ばれた現在の兵庫県神戸市北区有馬町にある有馬温泉(注9と考えられます。有馬温泉は 日本三古泉(注10の一つですから、歴史は古く、飛鳥時代にはすでに存在が確認されている温泉です。

江戸時代に有馬温泉を描いた「有馬山繪図」(宝永7年:1710年)(注11【図4があります。町並みは測量図をもとにしているようで、正確に描かれており、右下には、有馬から大阪や京都、姫路などへの道程も表記されています。周りの山や集落は鳥瞰図風になっています。有馬山はこの図からどの山を指すのでしょうか?「猪名野」「昆陽」とセットにするならば、湯山とよばれる「温泉」ではなく、「山」だと思われます。「有馬山」とは、有馬の山であることから、有馬温泉付近の山のことだと考えられそうです。現在の神戸電鉄有馬温泉駅を基点に、有馬三山【図5と呼ばれる山があります。落葉山(らくようさん)、灰形山(はいがたやま)、湯槽谷山(ゆぶねだにやま)が有馬三山です。ところが、古代から歌に詠まれ「有馬山」は、現地である有馬周辺からみた山々ではなく、現在の伊丹方面から有馬方面の山々を見た風景を言うようです。そして、伊丹から有馬三山は見えません。「有馬(温泉)」も「猪名の笹原」もどちらも地名としては古くから良く知られていたのですが、前述の交通要地、土地の重要度注目度といい、また、歌に詠まれると言うこと等を考えると、猪名野の認識は歌枕をもって原野・野原のイメージ で広がっていたと思われます。伊丹から有馬が見えないことも、「猪名野」「昆陽池」の広大さを感じさせるのです。後世にいう「さび」の美しさが「有馬山」とセットの「猪名野」「昆陽池」がピタリとはまったのでしょう

前述の伊丹市文学碑の「有馬山」登場の4作品での扱いは「夕霧立ちぬ」 「宿はなくして」 「明けぬこの夜は」 「風吹けば」 などとなっており、(注1「奈良時代の猪名野の原野の木々の間より寂し気な、うすずみいろの有馬山がたちはだかるように迫ってくる」のです。また、「朝方霧が立ち込め何も見えないなかでも、美しい猪名野、有馬山の夜明けの景観がえがかれている」のです。そして、「有馬山から吹き下ろす風で、作者の心の中とともに猪名野の笹原がなびく」のです。

これは旅情というのでしょうか。都から有馬温泉へ向かう途中の朝や夕刻、旅の疲れを感じる頃に通るのが「猪名の笹原 」「昆陽池・昆陽野」あたりの淋しい野路であり、そこに作者自身の心情を重ね合わせ歌を詠んだ。たとえ現地を訪問していなくても、教養ある都人は万葉集の一首「しなが鳥…」の古歌に憧れを持ち続けてきたことを歌に詠んだのでしょう。広々とした草原にどこまでも道が続いている、都大路のメインストリートを彷彿とさせる幽玄の世界が繰り広げられます。古代人が感じる自然への畏敬の念は、想像の中で生まれ、育み、心に宿っていったのです。その風情は歌に色濃く伝えられていると思われます。【図6

結論として、古代人が歌に詠み込んだ「有馬山」とは、有馬周辺にある特定の山をいうのではなく、伊丹から見た有馬周辺の山々の総称だと思われます。有馬温泉に向かう六甲連峰の東端を大きく全体として捉え「有馬山」ということにしていたのでしょう。【図7

ここでの解説文・図・写真などの資料は伊丹市文化財ボランティア8期生の永野昭一様から提供いただき、足立繁が編集作成したものです。        


注釈=====================

(注1

「文学碑をたずねて」(伊丹市文化財保存協会 発行 平成元年101日)

  志長鳥 猪名野を来れば 有間山 夕霧立ちぬ 宿はなくして

作者 読み人知らず 〔万葉集巻七雑歌「摂津にして作る歌21首」のうちのひとつ。〕 〔新古今和歌集巻十羇旅の部。〕

歌意 猪名野を歩いてくると、有馬山に夕霧が立った。今夜 泊まるところも決まってなくて、寂しく不安なことよ。 「しなが鳥」(かいつぶり・鳰鳥《におどり》)は猪名《いな》につづく枕詞。 しなが鳥が、居並《いなら》ぶの居《い》と猪《い》とが同音であるから、猪名の枕詞 になった。

有間山 裾野之原爾 風吹者 玉藻波依 昆陽能池水

作者 藤原忠通 田多民治集

歌意 有馬山の裾野の原に風が吹くと、昆陽の大池には美しい藻のように波が寄せてくる。

 しなが鳥 猪名野をゆけば 有馬山 夕霧立ちぬ 明けぬこの夜は

作者 読み人知らず  古今和歌集

歌意 早暁に宿を出て広い猪名野をここまで歩いて来たら、向こうに見える有馬山には霧が立ち込めている。夜はしらじらと明けそめた。

  ありま山 ゐなのささ原 風吹けば いでそよひとを わすれやはする

作者 大弐三位  後拾遺和歌集・恋   

歌意 有馬山の近くにある猪名(いな)にある、一面の笹原に生える笹の葉が有馬山から吹き下ろす風でそよそよと音をたてる。まったく、そよ(そうよ、そうですよ)どうしてあなたのことを忘れたりするものですか。有馬山から風吹けば、までの上の句全体は、下の「そよ」という言葉を引き出すための「序詞(じょことば)」です。「そよ」は笹がたてるさらさらという葉ずれの音を示すとともに「そうなのよ!」という意味もあります。二重の意味を持つ「掛詞(かけことば)」です。シャレのようなものですが、短歌では重要なテクニックのひとつです。

この歌は小倉百人一首(注12にもおさめられています。

(注2) 

ゐなの(猪名野)いなの

「猪名の笹原」「猪名の伏原」「猪名山」「猪名の湊」という形でもよまれた。摂津国の歌枕。今の兵庫県川西市・伊丹市・尼崎市を流れる猪名川流域の野。伊丹台地一帯。『万葉集』に「吾妹子(わぎもこ)に猪名野は見せつ名次山(なすきやま)角(つの)の松原いつか示さむ」(巻三・黒人)とよまれているが、同じ万葉歌でも、「しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りはなくて」(巻七)の方が『新古今集』に再録されるほどに有名であり、神楽歌の「しなが鳥猪名の伏原とびわたるしぎが羽音おもしろきかな」(拾遺集)とともに後代に大きな影響を与えた。「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」(後拾遺集・恋二・第弐三位、百人一首)は『万葉集』の「有馬山夕霧立ちぬ」によって、夕刻の思いを笹原をわたる風に託して述べたが、「しなが鳥猪名の伏原風冴えて昆陽(こや)の池水氷しにけり」(金葉集・冬・仲実)「しなが鳥猪名の笹原わけゆけばはらひもあへず降るあられかな」(拾玉集)など、晩秋から初冬にかけての冷え冷えとした情景をよむ歌が多くなり、「霧」のほか「氷」「雪」「月」などがよくよまれる景物となった。

『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999

『仁徳紀』38年に「猪名野」があります。(仁徳天皇:4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる天皇)

ここでいう猪名野は広義の猪名野であり、狭義では伊丹市南部から尼崎市北部の猪名野古墳群あたりをいいます。

(注3

昆陽池

昆陽池は、奈良時代の僧行基(668-749)の主導により開削されたと伝えられています。 自然地形を生かして、灌漑と洪水調節の役割をになった。『行基年譜』には、「河邊郡山本里」に行基による昆陽上池と下池があったことが記されています。昆陽は摂津国の歌枕であり、昆陽池は昔から歌枕となり、和歌や俳句に詠まれて大変有名な池で、藤原定家も有馬温泉へ湯治に向かう途中、昆陽池のほとりを通っています。

(注4 

『万葉集』 

3-460その左注に、題詞 七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首[并短歌]「大刀自石川命婦、餌薬の事によりて有馬の温泉に行きて、」とあり、有馬山が長歌の最後尾の中に詠まれている。

原文  略  白栲之 衣袖不干 嘆乍 吾泣涙 有間山 雲居輕引 雨爾零寸八

訳  真っ白な着物が涙で乾くひまがないほど、私は嘆き、悲しんだ。有間山には雲がたなびき、雨となって降ったことでしょうか。

(注5) 

文学碑60基以外で「いなの笹原」セットで「ありまやま」を詠んだ歌

有馬山 おろす嵐のそよぎつつ 秋をも待たぬ猪名の笹原

有馬山 みねゆく雲に風さえて あられ落ちくる ゐなのさゝはら  伏見院

有馬山 おろす嵐の寂しきに 霰ふるなり ゐなのさゝ原 藤原定家(捨遺愚草員外)

有馬山 雪気の空に風冴えて 霰玉ちる ゐなのさゝ原 足利義詮(宝筴院殿御百首)

有馬山 小末はさしもさわかしを ゐなのゝさゝを 風そみえゆく 隣家松風

ありまやま ゐなの小笹の 粽の節句 賀古教信(據 後拾遺集)

(注6) 

「いなの」「昆陽池」を使わずに「ありまやま」を詠んだ歌(伊丹ゆかりかどうかは不明)

津の国の武庫の奥なる有馬山ありとも見えず雲ぞたな引く       園基氏(新千載和歌集)

有馬山 まだあかつきは 程遠し  なおかきたてよ 法(のり)のともしひ 仁西上人(有馬小鑑)

有馬山 雲間も見えぬ五月雨に いて湯の末も水まさりけり 藤原俊成(五社百首和歌)

有馬山 薬師の鐘の声きけは 諸病無病ときくそたうとき (宗 祇)        

日数へて 湯にやしるしの 有馬山 やまひもなおりかへる旅人 (有馬道の記)

老の身の 命いままでありま山 又湯入らん事もかたしや (有馬道の記)

有馬山 諸国のふしを うたう湯女 読み人知らず (1763年、宝暦13年)

今時の 「けいせいにまことなし」とはうそさ、まこともすこしはありま山 (黄表紙・啌多雁取帳(1783

有馬山 たかはかりしき 夜もすがら ふしもさだめぬ 草枕かな 俊恵

有馬山 くもまもみえね 五月雨に いでゆのすゑも 水まさりけり 俊成

有馬山 一まはりさへ きくのはな  野坡

温泉の 屋根に菖蒲葺くなり 有馬山  碧梧桐

(注7) 

昆陽野

兵庫県伊丹市北部,旧摂津国武庫郡(後に河辺郡)児屋(小屋)郷あたりの野。《万葉集》に〈猪名野〉として歌われている南東方の為奈郷と同様,猪名川と武庫川にはさまれた平坦な台地上にあるため,灌漑の便少なく,広い原野を残していましたが,奈良時代に行基によって昆陽池が造築され,昆陽寺が建立されました。また京都と西国を結ぶ大路が東西に横ぎっていたので,平安貴族にも昆陽(小屋)野,昆陽池は歌枕として知られ,平清盛の福原遷都のさい,一時昆陽野に造都の案も出されています。

(注8 

伊丹遷都

『続日本後記』の844年(承和11109日「両度勅旨、定川辺郡爲名野、可遷建国府」  825年と835年の2度、摂津国府が河辺郡為奈野に遷都の議。(伊丹市史1

『玉葉』の1180年( 治承4に「昆陽野に遷都の議」。(伊丹市史1

(注9) 

有馬温泉

兵庫県神戸市にある有馬温泉は日本書紀の中で舒明天皇が西暦631年に滞在したと言う記述があります。長い歴史の中で有馬の発展は「開創の行基」「中興の仁西」「再建の秀吉」の3人によってなされたとも言われ、有馬の三恩人として語り継がれています。

また、有馬温泉は日本三名泉や枕草子の三名泉にも数えられるほか、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西の大関に格付けされた温泉となっています。

有馬温泉の湯泉神社の縁起によれば、泉源を発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。

有馬温泉の存在が知られるようになったのは、舒明天皇(593641年)、の行幸がきっかけで、一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には、舒明3631)年、舒明天皇が摂津の国有馬温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があります。そして、僧行基(668 -749)がここに一宇の堂を建立し薬師如来像を刻み、納めたといわれています。以来、有馬は相当な賑わいを見せたと伝えられ、豊臣秀吉もたびたび訪れることになります。

有馬の由来は諸説あるようです。

1 「山」の古語が「アリ・アル」であり山あいの地から「アリマ(山間)」といわれたとか、

2 新しく開かれた谷から「アリマ(新間)」といわれたとか、

3 アイヌ語で「燃える谷」という意味から「アリマ」といわれたとか、

「アリマ」が、やがて「有間」となり「有馬」となったようです。

(注10) 

日本三古泉(日本三古湯)

日本三古泉とは、その名の通り古くから存在し知られている温泉のことを指します。日本三古泉には二つの説があり、一つは日本書紀や風土記の記述に基づく「有馬温泉」「道後温泉(愛媛)」「白浜温泉/湯崎(和歌山)」の3つ、もう一つは延喜式名帳の記述に基づく「有馬温泉」「道後温泉(愛媛)」「いわき湯本温泉(福島)」の3つです。一般的に日本三古泉が紹介される場合は、日本書紀や風土記の記述に基づいた3つの温泉を指す場合が多くなっています。また、日本三古湯と呼ばれることもあります。

(注11
「有馬山繪図」 

江戸時代の有馬温泉の地図 で今の有馬温泉のあるあたり一帯の山を広く指しています。 有馬を描いた図 のなかでは、一番版年が古いものです (宝永7年:1710 年4月)。周りの山や集落は鳥瞰図風ですが、町並みは、測量図をもとにしているようで、正 確に描かれています。 右下には、有馬から大阪や京都、姫路などへの道程が表記されています。


(注12 

小倉百人一首

 今を去る770年余り前、京の都、郊外の山荘で催された歌会に招かれていた藤原定家は、山荘の主、宇都宮蓮生から、古今最高の100首を色紙にしたためて山荘の襖に表装したいとして、その選定を頼まれました。 定家が、古今集や勅撰和歌集などから選び出したのが小倉百人一首です。(ちなみに、百人一首が「かるた」になって庶民の遊びになったのは江戸時代のことです。)百首のうち兵庫県内のゆかりの歌が6首あり、その内1首が、「有馬山猪名の笹原」です。

 
 
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